第二十九章:沈黙の宇宙(そら)
アルゴ号は、静寂の中に漂っていた。
ほんの数分前まで船内を支配していた死の恐怖は、アドレナリンと共にゆっくりと薄れ、後には、鉛のような疲労と、より深く、より冷たい絶望が、乗組員たちの心を侵食し始めていた。ブリッジの赤い非常灯が、クルーたちの顔を能面のように照らし出す。誰もが、メインスクリーンに映し出された、二つの太陽が支配する、あまりにも美しく、そしてあまりにも非情な宇宙を、呆然と見つめている。彼らは生き延びた。だが、その事実は、勝利の味ではなく、死の執行が、わずかに猶予されただけだという、苦い後味を残していた。
「……ハーモニック・ドライブ、完全沈黙」
機関士官が、絞り出すような声で報告する。その顔は、自らが作り上げた最高傑作の死亡診断書を読み上げる医師のように、絶望に彩られていた。
「慧キャプテンの指示通り、意図的に暴走させた際の負荷が、コアユニットに致命的な損傷を与えました。共振クリスタルが、分子レベルで砕け散っています。……修復には、少なくとも数週間。いえ、この船の設備だけでは、完全な修復は不可能です」
その報告は、彼らが置かれた状況を、残酷なまでに明確にした。
ワープ航法という、唯一の帰還手段を失った。
ここは、地球から4.2光年離れた、ケンタウルス座アルファ星系。通常エンジンでこの距離を帰還するには、数万年の歳月を要する。それは、この船が百名を超える乗組員の巨大な棺桶となり、永遠に漂流することを意味していた。
「……そうか」
慧は、静かに答えた。彼の声には、もはや動揺はなかった。船長として、最悪の事態を想定し、そして、それを受け入れる覚悟は、既にできていた。
「生存者の確認、船体の損傷状況をまとめ、報告しろ」
彼の冷静な命令が、ブリッジの凍りついた空気を、わずかに溶かした。クルーたちは、まるで操り人形のように、それぞれの持ち場に戻り、機械的に作業を開始する。その動きだけが、彼らがまだ正気を保っていることの、唯一の証だった。
格納庫では、ヤヌスとスペクターが、戦闘機のコックピットの中で、黙り込んでいた。
ヤヌスは、ヘルメットの中で、荒い呼吸を繰り返していた。あの「アンチ・ソング」を発射した瞬間、彼の精神は、純粋なカオスの奔流に叩きつけられた。それは、アンデスで対峙した「調律者」の赤い光とも、今遭遇した「無」とも違う、ただひたすらに無秩序な、魂を削る暴力だった。スペクターもまた、同じ衝撃を共有していた。彼は、自らの精神が、無数の不協和音によって引き裂かれそうになるのを、鋼の意志で耐え抜いていた。
『……大した、指揮だったな。キャプテン』
ヤヌスの口から、自然と、その言葉が漏れていた。それは、皮肉でも、怒りでもない。自分とは全く違う種類の武器で、全く違う戦い方で、この絶望的な戦場を生き抜いた男への、戦士としての、純粋な敬意だった。
科学者。宇宙に逃げた臆病者。そんな風に侮っていた自分を、ヤヌスは恥じた。あの男は、自分と同じ、あるいはそれ以上に、覚悟の据わった「戦士」だった。
数時間後、アルゴ号の第一会議室に、主要なクルーたちが集められた。
船長の慧、船外活動部隊のヤヌスとスペクター、そして各部門の士官たち。重い沈黙の中、慧が口を開いた。
「我々は、宇宙の迷子になった」
彼は、誰の目も見ることなく、テーブルの上に映し出された星図を指差した。
「ハーモニック・ドライブは、使用不能。地球への帰還は、絶望的だ。そして、この宙域には、我々の『音』を記憶した、無音の捕食者が潜んでいる」
その言葉の一つ一つが、クルーたちの最後の希望を打ち砕いていく。
「だが」
慧は、そこで初めて、顔を上げた。その瞳には、絶望の色はない。
「我々は、生きている。そして、思考することを、やめてはいない。……選択肢は、三つある」
彼は、スクリーンに三つのプランを提示した。
プランA:この場で、ハーモミック・ドライブの修復を試みる。成功すれば、一か八か、地球へワープする。だが、それは、捕食者を地球へ導く、自殺行為に等しい。「我々が故郷に持ち帰るのは、希望ではなく、終末だ」
プランB:通常エンジンで、地球を目指す。「それは、この船を、百名の乗組員を乗せた、巨大な棺桶に変えるだけだ。我々は、食料と酸素が尽きるのを、ただ指をくわえて待つことになる」
プランC:……。
「プランC……?」
科学士官が、訝しげに呟く。
「それは、一体……?」
「もう一度、あの惑星へ向かう」
慧の言葉に、会議室が凍りついた。
「あの『墓標』へ。我々が生き残るための、唯一の希望は、あそこにあるかもしれない」
「正気か!」
機関士官が叫ぶ。
「あそこは、奴らの狩場だ! 自ら、餌になりに行くようなものだ!」
「そうだ」
その時、それまで黙っていたヤヌスが、静かに口を開いた。彼はゆっくりと立ち上がり、その場の全員を見渡した。
「だが、あの塔は、我々に警告を発した。そして、あの捕食者の情報を、映像として見せた。……あれは、単なる墓標ではない。奴らと戦い、そして敗れた文明が遺した、膨大な『戦闘記録』だ。敵を知り、己を知れば、百戦危うからず。違うか、キャプテン」
慧は、ヤヌスをまっすぐに見つめ、静かに頷いた。
二人の間に、初めて、確かな信頼の絆が生まれた瞬間だった。
「我々は、あの塔に残された情報を解析し、捕食者の正体を突き止める。そして、奴らと戦うための、あるいは、奴らから隠れるための、新たな『歌』を見つけ出すんだ。……それが、我々が生き残るための、唯一の道だ」
慧の言葉は、もはや科学者の分析ではなく、絶望の淵に立つ指揮官の、決意表明だった。
会議室に、再び沈黙が落ちる。
だが、それは、先ほどの絶望に満ちた沈黙ではなかった。
極限状況の中で、進むべき道を見出した者たちだけが共有する、静かで、そして覚悟に満ちた沈黙だった。
アルゴ号は、ゆっくりと船首を巡らせる。
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