第二十五章:ケンタウイルス座のソナタ
アルゴ号は、時空の奔流の中にいた。
窓の外には、もはや星々は見えない。光が引き伸ばされ、色が混ざり合い、宇宙そのものが巨大な抽象画と化した、常識を超えた光景が広がっていた。それは、78.7ヘルツの音が描き出す、ワープ航行の景色だった。船内は、ハーモニック・ドライブが発する、低く、心地よいハミングのような振動に満ちされている。それは心臓の鼓動にも似て、乗員に奇妙な安心感を与えていた。
「――ワームホール内の空間座標、安定しています」
「船体への時空連続体からの負荷、許容範囲内」
ブリッジに、クルーたちの冷静な報告が響く。だが、その声の裏には、誰もが隠しきれない畏怖があった。彼らは今、人類の歴史上、誰一人として足を踏み入れたことのない領域を旅しているのだ。物理法則が意味をなさず、時間と空間の定義さえ曖昧になるこの奔流の中では、アルゴ号という船そのものが、彼らにとって唯一の世界であり、拠り所だった。
船長席に座る水嶋慧は、目の前のコンソールに表示される、複雑怪奇な数式と波形を、食い入るように見つめていた。ハーモニック・ドライブが奏でる音は、単なる推進力ではなかった。それは、宇宙の構造そのものに干渉し、物理法則を書き換える「言語」だった。慧は、まるで未知の文明の音楽を初めて聴く作曲家のように、その旋律を、その和音を、必死に理解しようとしていた。一つのパラメーターの誤りが、船を時空の狭間で永遠に迷子にさせるか、あるいは原子レベルにまで分解させてしまうことを、彼は誰よりも理解していた。彼の指先がコンソールの上を舞うたびに、船のハミングが僅かにその音色を変える。彼は、宇宙と対話しているのだ。
一方、船内の訓練室では、ヤヌスとスペクターが、重力発生装置の負荷を最大にした状態で、黙々と汗を流していた。
ヤヌスにとって、このワープ航行は、耐え難いほどの不快感を伴うものだった。自らの肉体と五感だけを頼りに、死線をくぐり抜けてきた彼にとって、船全体が、得体の知れない「音」に支配されているこの状況は、まるで巨大な生物の胎内に囚われているかのようだった。目に見えない脅威、手で触れることのできない法則。それは、彼が最も忌み嫌う戦場だった。
「……気に食わんな」
インターバルの合間に、ヤヌスは、床に落ちる汗を睨みつけながら吐き捨てた。
「この船も、この航行も。俺たちの命は、キャプテンの頭の中にある数式と、得体の知れない『歌』に委ねられている」
「だが、これが唯一の道だ」
スペクターが、静かに応えた。
「俺たちは兵士だ。与えられた武器で戦う。その武器が、銃剣から『歌』に変わった。それだけのことだ」
「お前は、あの男を信じるか」
ヤヌスの問いに、スペクターは少しだけ考える素振りを見せた。
「……信じる、信じないではない。彼は、俺たちとは違う言語で、同じ戦場に立っている。それだけは、確かだ」
その時だった。
船全体を包んでいた、低く、安定した振動が、ふっと消えた。
ワームホールの出口。
絶対的な静寂が、一瞬、アルゴ号を支配する。
次の瞬間、ブリッジのメインスクリーンが、漆黒の闇から、眩い光の世界へと切り替わった。
「ワープアウト成功! 現在位置、目標ポイントです!」
オペレーターの歓喜の声が響く。
スクリーンに映し出されていたのは、二つの太陽だった。
一つは、地球の太陽よりもひと回り大きく、力強い黄金色の光を放つ恒星。もう一つは、それよりも少し小さく、穏やかなオレンジ色に輝く恒星。二つの太陽は、互いの引力に導かれ、永遠のダンスを踊るように、ゆっくりと、しかし雄大に周回していた。ケンタウイルス座アルファ星AとB。その二つの恒星が放つ光は複雑に混じり合い、船内の壁に、これまで誰も見たことのない、幻想的な光と影の模様を描き出していた。
「……これが……」
慧は、息を呑んだ。
写真やデータでしか見たことのなかった光景が、今、目の前に広がっている。人類が、初めて直接目にする、太陽系以外の恒星系の姿。
「全センサー、オンライン。周辺宙域のスキャンを開始しろ」
慧は、感動を押し殺し、冷静に命令を下した。
ヤヌスとスペクターもまた、格納庫のモニターで、その光景を見ていた。言葉はなかった。ただ、その圧倒的なまでに美しい、神々の領域のような光景に、己の存在の小ささを感じずにはいられなかった。
スキャンは、数時間に及んだ。
いくつかのガス惑星と、岩石型の惑星が発見された。だが、生命の兆候も、人工的な構造物も見当たらない。
調律者が残した星図は、間違いだったのか。
クルーたちの間に、失望にも似た空気が流れ始めた、その時。
「……キャプテン!」
通信士が、声を上ずらせた。
「微弱ですが……指向性のある信号をキャッチ! これは……自然のものではありません!」
ブリッジの空気が、一瞬で凍りつく。
メインスピーカーから、その信号が再生された。
それは、言葉ではなかった。歌でもなかった。
だが、それは、明らかに知性によって組み立てられた、数学的で、そしてどこか懐かしい響きを持つ、「音」の連なりだった。
『――・―・・ ――・―・・ ――・―・・』
それは、かつて人類が、宇宙に向けて放った信号。
モールス信号で、「S・O・S」を意味する、遭難信号だった。
「信号の発信源は?」
慧が、鋭く問う。
「アルファ・ケンタウリAの、第三惑星。ハビタブルゾーンの内縁を公転する、岩石惑星です!」
慧は、スクリーンに映し出された、青と白の雲に覆われた惑星を、まっすぐに見つめた。
それは、あまりにも、地球に似ていた。
そして、その地球によく似た星から、人類がかつて使っていた救難信号が、4.2光年の時空を超えて、彼らに届いていた。
「ヤヌス少佐」
慧は、通信機に向かって、静かに呼びかけた。
「……出番です」
格納庫で、ヤヌスは無言で頷き、戦闘機のコックピットへと向かう。
最初の接触(ファーストコンタクト)。
それは、人類が夢見た、希望に満ちた対話の始まりではないのかもしれない。
宇宙の深淵から届いたのは、未知の隣人の、悲痛な叫び声だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます