第二十八章:不協和音の賭け

絶対的な「無」が、アルゴ号に迫る。

船内に鳴り響く甲高い警報音は、乗組員たちの理性を麻痺させ、思考を停止させる死の宣告だった。ブリッジのクルーたちは、メインスクリーンに映し出された、宇宙が消滅していく光景に、ただ立ち尽くすことしかできない。

『どうするんだ、慧!』

格納庫から、ヤヌスの怒声が通信機を突き破って轟いた。

『ここで、あの星の連中のように、ただ食われるのを待つのか! あんたは船長だろう! 俺たちを、生きて地球に帰すと、そう言ったはずだ!』

その言葉は、氷のように冷たい水となって、慧の頭に降り注いだ。そうだ、俺は船長だ。この船の、百名を超える乗組員の命を、そしてその先にある、地球の未来を預かっている。

慧は、目を固く閉じた。恐怖に支配されるな。思考を、止めるな。絶望は、思考が停止した瞬間に、魂を喰らい尽くす。

「全クルー、沈黙!」

慧の、凛とした声が、ブリッジに響き渡った。

「警報を止めろ。全船、ゴースト・プロトコルへ移行。生命維持と観測機器以外の、全ての動力を切れ。俺たちは今から、石ころになるんだ」

「キャプテン、しかし……!」

「いいからやれ!」

クルーたちは、半信半疑のまま、しかし船長の命令に反射的に従った。警報音が止み、ブリッジの照明が非常用の赤いランプへと切り替わる。船内を満たしていた、あらゆる電子機器の作動音が消え、アルゴ号は、深海に沈んだ潜水艦のように、完全な沈黙に包まれた。

だが、「無」の侵食は、止まらない。

ゆっくりと、しかし確実に、死は、こちらへとにじり寄ってくる。

『無駄だ!』

ヤヌスが叫ぶ。

『奴らは、俺たちの存在そのものを感じ取っているんだ! 息を潜めても、隠れられるわけがない!』

「分かっている」

慧は、赤い非常灯に照らされたコンソールを、凄まじい速度で操作しながら答えた。彼の脳裏では、科学者としての全ての知識と、船長としての生存本能が、火花を散らしていた。

「奴らが『音』を食べるなら……。消化できないものを、食わせてやればいい」

「……どういう、意味です?」

隣に立つ科学士官が、かすれた声で尋ねる。

「奴らが好むのは、調和の取れた『歌』だ。78.7ヘルツのような、安定した生命の周波数。だが、もし、その逆の音をぶつけたら? 調和も、秩序も、情報さえも存在しない、純粋な『ノイズ』。不協和音の塊を、奴らの口に突っ込んだら、どうなる?」

慧の目は、狂気にも似た輝きを放っていた。それは、破滅への賭け。だが、この絶望的な状況下で、唯一、彼が見出した、万に一つの可能性だった。

「ヤヌス、スペクター。聞こえるか」

慧の声は、もはや揺らいでいなかった。

「今から、俺がハーモニック・ドライブを、暴走させる」

『……正気か!』

「正気だ。だが、安定した周波数じゃない。あらゆる周波数を、無秩序に、ランダムに重ね合わせた、純粋なカオスを発生させる。いわば、『アンチ・ソング』だ。そのノイズの塊を、君たちの戦闘機に搭載された音響兵装で受け止め、奴らに向かって『発射』するんだ」

それは、囮作戦。

自分たちの存在という「音」を、さらに巨大な「騒音」でかき消し、その隙に、この宙域から離脱する。

「……面白い」

通信機の向こうで、ヤヌスが、獰猛に笑った。

「どうせ死ぬなら、ただ食われるよりは、マシだ」

「フェンリル、ガルム、発進!」

ヤヌスとスペクターの機体は、再び格納庫から飛び出した。

眼前に迫る、絶対的な「無」。その漆黒の闇は、二人のパイロットの精神を、内側から削り取っていく。

「今だ! やれ!」

慧が、叫ぶ。

アルゴ号の船体中央で、ハーモニック・ドライブが、断末魔のような悲鳴を上げた。

キィィィィン!!

それは、もはや音楽ではなかった。ガラスを引っ掻く音、金属を引き裂く音、数万人の悲鳴。宇宙に存在する、あらゆる不快な音を凝縮したような、耳ではなく、魂を直接揺さぶる、純粋な暴力の塊。

その「アンチ・ソング」を、二機の戦闘機が、前方に展開した音響フィールドで受け止め、増幅し、前方の「無」に向かって解き放った。

ズゥゥゥゥン……!!

音のない宇宙に、衝撃波だけが走る。

すると、信じられない光景が、彼らの目の前で起こった。

絶対的な「無」が、初めて、その侵食を、止めたのだ。

まるで、毒を食らったかのように、その黒い領域の輪郭が、激しく波立ち、痙攣している。それは、混乱だった。捕食者が、初めて遭遇する、消化不能な獲物を前に、戸惑っているのだ。

「今だ! 通常エンジン、最大船速! この宙域から離脱する!」

慧の命令が、ブリッジに響き渡る。

アルゴ号は、不協和音の嵐に守られながら、ゆっくりと、しかし確実に、「無」の領域から後退を始めた。

ヤヌスとスペクターは、数回にわたって「アンチ・ソング」を発射し、捕食者の注意を引きつけ続ける。

やがて、「無」は、まるで諦めたかのように、その広がりを止め、ゆっくりと収縮し、そして、初めから何もなかったかのように、宇宙の闇の中へと、消えていった。

アルゴ号のブリッジに、安堵のため息と、嗚咽が漏れる。

彼らは、生き延びたのだ。

『……大した、指揮だったな。キャプテン』

通信機から聞こえてきたヤヌスの声には、もはや怒りはなく、戦士が、自分とは違う力を持つ別の戦士に向ける、純粋な敬意が込められていた。

慧は、何も答えられなかった。

ただ、目の前の星図を見つめていた。

彼らは生き延びた。だが、ハーモニック・ドライブは、暴走させた影響で、しばらく使用不能。そして何より、あの捕食者は、人類という「音」を、学習してしまっただろう。

ここは、4.2光年先の、敵の領域。

彼らは、宇宙の迷子になったのだ。

そして、その闇の中では、音を喰らう捕食者が、静かに耳を澄ませている。

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