捨てられ令息は騎士を照らす
羽間慧
第1話 婚約破棄された令息
あの出会いはよく覚えている。
「ベルトラン公爵が子息、ソラル・ベルトランでございます。ニネット王女殿下、この度はお誕生日おめでとうございます」
よかった。噛まずに言えた。
何度も練習したセリフを無事に言い終えた僕は、思わず笑顔になる。
「嬉しいわ。婚約者様」
同じ八歳とは思えない、優美な笑顔。
僕らを取り囲んでいた群衆は婚約者という単語にどよめき、満面の笑みで国王陛下が婚約を宣言したのだった。
家同士が決めた婚約を簡単に破棄することはできない。
王家と公爵家が結んだ取り決めなら尚更。
大人びた婚約者に呆れられることがないよう、勉学も実技もこれまで以上に励んだ。
婚約者に付き従う形で王立魔術学校に入ってからも、彼女の名を落とさないために好成績を維持し続けた。お飾りの婿ではなく、宮廷魔術師の夫として肩を並べたいと願いながら。
ふたを開けてみれば、婚約者から一度も首席を奪えないままの学生生活だった。生まれながらの天才がおごりを持ったとしたら、勝利の女神は僕に微笑んでいたのかもしれない。
努力を怠らない婚約者は誇らしいと思ったし、みんなに彼女のすごさを知ってほしいと感じた。
ニネットを称える生徒達の多さに安堵しつつ、迎えた卒業パーティー。
僕は婚約者をエスコートしないまま、一人で出席した。気分が悪いから欠席すると言われたからなのだが、友人からは愛想が尽かされたのではないかとからかわれた。
「愛しの王女殿下を看病しないだなんて、婚約者様は随分と冷たいな」
「メイドも護衛騎士もいるから、僕の出る幕がないんだよ。週に一度、彼女の部屋でお茶を飲むくらいの距離感がいいみたいだ。あまり干渉しすぎたら、彼女の機嫌を損ねてしまうからね」
頑張るあなたの姿を見ていると、元気をもらえるの。
口数が多いとは言えない婚約者は、僕とお茶を飲むときだけ本音を話してくれる。固いつぼみがほころぶ白百合を、息を殺して見守っている気分になれる。
貴族の開くお茶会は、基本的に腹の探り合いだ。同じ派閥でも、信頼できる相手か見定められなければ裏をかかれる。
常に将来の君主としてふさわしい人物であれ。そんな重責を背負わされる婚約者が、少しでも僕といるときは楽にすごせたらいい。
パーティー会場の扉がゆるやかに開かれる。視線を向けた先に、体調不良のはずの婚約者が男の手を取っていた。
今年からやってきた留学生。僕も婚約者も、世間話くらいなら何度か交わしたことがあった。彼は無愛想だったものの、勤勉な態度は好感が持てた。
「どうなっているんだよ、ソラル! きみは知っていたのかい?」
「さすがに留学生くんも分かっているよな! 王女殿下に婚約者がいることは、この学園に通う者なら周知の事実だろ?」
慌てる友人達の声が遠くで聞こえる。
僕の目の前で止まった婚約者は、いつもと何も変わらない表情だった。留学生に心酔しているようには見えなかった。まさに冷静そのもの。嘘や不正を嫌う彼女らしくない。態度や身なりだけがちぐはぐだ。
薄紫色のドレスはウエストをきつく締め上げるデザインで、体調に問題がないときに着ても苦しい思いをすることは分かっていたはずだった。
嫌な予感がする。
ここから逃げてしまいたいと思ったとき、婚約者はよく通る声で宣言した。
「ソラル・ベルトラン。あなたとの婚約を破棄します」
国王陛下のお許しは得られたのですか。卒業パーティーでそのような発言をしてもよろしいのですか。言いたいことはたくさん出てくる。
だが、婚約者の最も嫌いなことが時間の浪費だと、十年一緒にいた僕が一番よく分かっていた。ありきたりな追及をしても、対策は練られているはずだ。物語に出てくるような無能王子とは違って。
それなら、僕にできることは一つしかない。
美しき王女のロマンスを引き立たせるために、僕は感情を抑えた。
「理由を、お聞かせ願えますか?」
「笑顔だけが取り柄のあなたといるのは疲れるの」
そんなことを言われたのは初めてだ。両親や領民、国王陛下および皇后陛下からも、癒される笑顔だと褒めてもらえていた。
何も言ってこない婚約者に、まさか嫌われているとは思わなかった。
へにゃりと歪む口角を、僕は懸命に直す。不快に思われない顔は、できているだろうか?
「ソラル。あなたはただ静かに、私に寄り添うだけでよかったの。いつもあなたのペースでお話しするばかり。お茶をともにすることも、婚約者としての務めだと思っていたけれど。限界よ。私の思いを分かってくれなかったあなたとは、もう一緒にいたくないわ」
「そんな……」
王女として毅然と振る舞う婚約者が、一人の少女として雑談できる場所を作りたかっただけだった。
いや、思い上がりも甚だしいか。婚約者の気持ちを決めつけて、話し合おうとしなかった僕に非がある。
僕がしてきたことは、逆効果だったみたいだ。お口に合いますか、次はどのようなお菓子を持ってきましょうかと、好みを訊くことも。婚約者にとっては、苦痛でしかなかったのかな。放っておいてと願われていたのなら、申し訳ない。楽しませたい一心で、ひどいことをしてしまった。
握りしめる手が冷えていく。
黙ってしまった僕を横目に、王女殿下に同情する声が上がり始めた。
「ベルトラン様は、いい意味で裏表がないお方だからな。社交界では珍しい純粋さが、息苦しく感じられたのだろうな」
「ずっと笑ってくださるのは、悪いことではないのだが」
「えぇ。明るすぎるのも考えものということですわね」
「疲れきったニネット様をお支えしてくださった方が、異国からの留学生だなんて素敵ですわ」
これでいい。自分にできる手は全て打った。
王女殿下を悪く言う声が出ないうちに、邪魔者は退散しよう。真実の愛を見つけた王女殿下の筋書きは、民衆にもてはやされる。王家にも公爵家にも、迷惑はかからないはずだ。後は、どうやってこの場を綺麗に離れるか。
いいや、綺麗になんて無理だ。十年かけた時間を簡単に終わらせるほど、薄情者ではない。今の僕には泣き笑いしかできそうになかった。「婚約破棄の件、承りました」と言うだけでいいと分かっていながら、何の言葉も口から出てこない。
「王女殿下には眩しすぎたようですね。小さな太陽が」
僕の代わりに言ってもらえた捨てゼリフは、失った体温を取り戻してくれた。
正装の騎士服を着た青年が、好奇な視線から僕を守るように立ちふさがる。青いマントが揺れる様子を見ていると、少しずつ気持ちが穏やかになっていった。
計画にない行動だったのか、王女殿下は青年に問い詰める。
「フィリベール・ペロ。ソラルをかばうなんて、どういうつもりなの?」
それは僕も聞きたかった。
赤髪のオールバックに手をやって考え込むフィリベールは、敵対する派閥の者ではない。だが、僕の味方とも呼べなかった。
彼が従うのは国王陛下の命令のみ。王女殿下を守る護衛騎士ならば、王族でもない僕を優先するのは間違っている。
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