第二章 第2話 無声の街、沈黙の神殿
旅立って十日目の夕刻。
山と川を越え、霧に包まれた谷に辿り着いた。
そこにあったのは――音のない街。
風が木々を揺らしても、鳥が羽ばたいても、
その音が届かない。まるで世界ごと息を潜めているようだった。
リナが囁く。
「……ここ、本当に人が住んでるんですか?」
「灯がある。生きている」
私は杖の先で空気を叩いた。
鈍い波紋が広がる。魔力の膜――防音結界だ。
だが、外敵を拒むというより、自分たちの声を閉じ込めているように見えた。
街の入口に立つ石碑には、古い言葉でこう刻まれていた。
> 《沈黙は救いなり。言葉は恐怖の器なり。》
リアナがそれを読んで、眉をひそめた。
「……“言葉が恐怖を生む”?」
「理屈は理解できる」私は呟く。
「言葉は心を形にする。
形は他者を意識させ、他者を恐れさせる。
だから――この街は“言葉を棄てて”恐怖を封じたのだ」
ナナが小さく身震いした。
「でも、それじゃ……感情もなくなっちゃう」
「そうだ。理解だけで繋がろうとすれば、
心は沈黙の底に沈む。まるで――この街のようにな」
私たちが足を踏み入れると、
通りにいた人々が一斉にこちらを向いた。
彼らの唇は動かない。
しかし、瞳だけが何かを伝えてくる。
怯えでも、敵意でもない。
ただ、**“声を出すことを忘れた者”**の空虚な静けさ。
リュカが呟く。
「師匠……あれ、口に布を巻いてる」
老人も、子どもも、喉に細い紐を巻いていた。
声帯を守るためではない。声を封じるためだ。
そのとき、通りの奥から一人の女が現れた。
白衣をまとい、灰の髪を束ね、
胸には銀の鈴の飾りをつけている。
鈴は揺れても、音を出さない。
彼女は私たちを見つめ、両手を合わせた。
唇が静かに動く。――無音の言葉。
リアナが読み取る。
「……“ようこそ、沈黙の神殿へ”。」
神殿の中は、外よりもさらに静かだった。
天井には巨大な布が張られ、音の反響をすべて吸い取っている。
祭壇には光の粒が漂い、僅かな呼吸の音さえ消える。
女――“沈黙の巫女”は、板に文字を刻んだ。
> 『我らは言葉を捨て、心の理で繋がる民。
> 恐怖も憎しみも、声から生まれる。
> だから声を封じた。』
私は板を見つめた。
「声を恐れたのか」
巫女は頷く。
> 『あなたは“再定義者”と聞いています。
> 理の教えを、この谷に伝えた方。
> どうか――沈黙を破らないで。
> 言葉を持ち込めば、この谷は再び“恐怖”に飲まれます。』
リナが身を乗り出した。
「そんな……! 声がなくて、どうやって人は想いを伝えるんですか?」
巫女は微笑み、
> 『想いは、声よりも正確に心で届く』
と刻んだ。
私は杖を床に立てる。
「――では問おう。
心を閉ざして、どうやって理解を得る?」
その瞬間、空気が震えた。
巫女の瞳に、初めて恐怖の色が浮かんだ。
天井の布がわずかに揺れ、
奥の扉から何かが出てきた。
人影……いや、声そのものの形をした存在。
波紋のような輪郭、息をするたびに微かな囁きが漏れる。
《――ことばを……だれが、ゆるした……》
リュカが剣を抜く。
「な、なんだこいつ!」
「“沈黙の理”が生んだ怨声だ」私は低く言った。
「恐怖を封じようとした人々の“声”が、形になった」
巫女が膝をつき、祈る。
> 『封印したはず……なのに……!』
「封印ではない。抑圧だ。
恐怖を否定すれば、いつか必ず反動が来る」
私は杖を掲げる。
弟子たちが陣を組む。
「風よ、音を運べ」「炎よ、声を照らせ」
小さな声で唱える。
沈黙の結界が軋み、怨声が悲鳴のように揺らめいた。
《――わたしたちは、声を、返して――》
その声に、リアナが震えた。
「……“声を返して”って……泣いてる……」
「ならば返そう」
私は杖を床に突き、呟いた。
「再定義――“沈黙は恐怖の否定ではなく、言葉の余白”」
青い光が神殿を包む。
封じられた声が、少しずつ空気に溶けていく。
巫女の鈴が初めて音を立てた。――チリ、と小さく。
怨声は霧のように消え、静寂だけが残った。
だが、それは恐怖のない静寂ではなく、穏やかな沈黙だった。
夜。
谷の灯が揺れていた。
人々は少しずつ口を開き、
囁きのような声で、互いに名を呼び始めていた。
巫女が私の前に膝をつき、静かに言う。
「……あなたは、沈黙を壊したのではなく、
沈黙の“意味”を変えたのですね」
「理とはそういうものだ。壊すのではなく、重ねる」
「これが、恐怖と共にある理解……」
彼女は鈴を外し、私に差し出した。
「この谷が再び声を忘れそうになったら、鳴らしてください」
私はそれを受け取り、微笑んだ。
「約束しよう。だが、その時はお前たち自身がもう一度“問え”。
――沈黙とは、何のためにあるのかを。」
翌朝。
谷を出るころ、風が谷を抜け、誰かの歌声が聞こえた。
震えながらも確かに“生きている”声だった。
リアナが振り返る。
「師匠、あの子の歌……聞こえますか?」
「聞こえる。
それが、恐怖を越えた理解の“最初の音”だ」
そして私は、胸の鈴を鳴らした。
チリ――と、一度だけ。
(つづく)
次回・第二章 第3話「恐怖を忘れた王女」
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