ユーリ・クルスタインの邂逅 − 漂依者の幽眼 −
玲 枌九郎
第1話 ドリアドの森
「そろそろ片面焼きが恋しくなるね」
青年は席に置かれた皿を見て、吐息のようなつぶやきを漏らしながら首を振った。その拍子に柔らかくうねる金髪。ふんわりと揺れる。
テーブルにはスクランブルエッグとベーコン、チェダーチーズが添えられたパン。ワンプレートにまとめられた、見慣れた朝食だ。そこに青年が座ると、湯気の立つカップが差し出された。
「提案したのはマイオール、君だ」
サーブした青年が抑揚のない声で告げた。下ろした黒髪の隙間から覗く青い瞳は冷たく見えるが、マイオールは気にも留めない様子だった。どこか悪戯っぽい笑みで、左隣に立つ青年にヘーゼルの眼差しを送る。
「その日の気分次第で、とろりとした黄身にパンを浸したくなったりもする――そうだろう、ユーリ?」
ユーリは沈黙で応じ、微動だにしない。
マイオールはそれを意に介さず、カトラリーを手に取り、ベーコンと卵を口に運ぶ。満足げな表情は、髪の色のように淡く柔らかい。
「素材で考えれば、片面焼きもスクランブルも、加熱した卵という点で同じだね。結局は固まったタンパク質をどう咀嚼するか。だけど違いは誤差かな——味と口当たりには影響するけど、ね」
マイオールはそう言ってまた卵を口にした。
ユーリは硬い表情のまま、まばたきすらしない。
マイオールはまたも気にせず、味を確かめるように軽く頷いた。
「その辺りも研究したいね。でもまずは片面焼きと比較できると良いんだけど」
「善処する」
「ところで——」
食器がかちゃりと鳴った。フォークを置いたマイオールの左手が、隣に控えていたユーリの右腕を掴んで軽く引き寄せる。ユーリは逆らわず、向き合う姿勢で両手を開いてみせた。
「——火傷はしてない?」
マイオールはユーリに問いながらカフリンクスを外し、彼の白いシャツの袖口をめくる。現れた肌はしっとりと白く、引き締まった腕には染みひとつなかった。
「傷はない」
ユーリの声は落ち着いていた。腕をマイオールに委ねたまま、引く素振りもみせない。
マイオールはユーリの両手を観察し、納得したように頷いてから、開かれたままだった彼の右手にカフリンクスを置いた。それはわずかに転がり、光を反射した。
「今日は予定もあるし、診察はそれが終わってからにしよう」
「その予定がドリアドの件なら、私ひとりで——」
「いや、付いていく。食べ終えたら一緒に出るよ」
「そうか。では準備をしてくる」
マイオールはその背を見送り、カップを口に運ぶ。香りと温もりを味わいながら、これからの森行きを思う。
食事を終えると自室へと戻り、トラウザーズと同色のライトグレーのジャケットに腕を通した。立ち襟の首元にオリーブグリーンのクラヴァットを結び、部屋を出る。
すでに玄関で待っていたユーリは、白いシャツに黒の上下を合わせ、リボンタイも四角い革張り鞄も黒で統一していた。その姿は影のように簡素で、マイオールとは対照的だった。
ユーリが玄関扉を押し開き、二人揃って外に出る。施錠したのもユーリ。
「こんな街外れ、誰も来ないと思うよ?」
「鍵をかけるのは手間ではない」
郊外の別荘地だが用心するに越したことはない、と言外に含ませ、ユーリはチェーンの付いたキーをベストのポケットに仕舞った。
歩き出した二人の横顔を朝日が照らし、陰影のコントラストが肌の白さを際立たせる。
風に揺れる木立や、遠く羽ばたく鳥影を見ながら自然体で歩くマイオールに対して、ユーリは一定の歩幅で前だけを見ていた。レザーシューズの踵が地面を擦ることもなければ、持った鞄を振ることもない。
マイオールは傾くようにユーリに顔を寄せ、冗談めかした声で彼の耳元にささやきかけた。
「ユーリ、緊張してる? 少しくらい気を抜いて歩いてもいいんじゃない?」
ユーリは視線を前に向けたまま、ほんの少しだけ逆側に首を倒して距離を保つ。
マイオールは肩を震わせながら唇に拳を当て、笑い声を押し殺す。
髪を揺らしながら姿勢を戻した彼をちらりとも見ず、ユーリは冷静に答えた。
「じきに慣れる。それより君だ」
「昨日も話した通り、危険と判断したら逃げ帰るよ。ドリアドは木の魔物。根で歩くから動きそのものは鈍いからね。枝のしなりを利用して攻撃してくるそうだから、近づかなければ大丈夫だと思う」
マイオールは弾くように人差し指を立てた。憶測混じりだが、不安さの欠片も感じさせない。
「安全な距離は?」
ユーリの問いに、マイオールは肩をすくめて首を振った。
「素材でしか見たことはないけど、ドリアド材は魔力を通すと弾性と剛性が増すんだ。でも延伸性はそう高くない。もちろん生体が持つ魔力量でも数値は変わるし、乾燥材と生材、年輪や樹液の含有量でも差が——聞いてるかい?」
マイオールは言葉を切ると、ユーリの瞳を覗き込んだ。ユーリは前を向いたまま、質問を質問で返す。
「つまり?」
「……見てみないとわからない」
「なるほど」
二人は話しながら丘を下り、濃い緑の森を見つめた。
森の入り口で立ち止まる。
マイオールが首を巡らせ、周囲を伺った。
「人の手が入った森とはいえ、探すのは手間だね」
「いや。探す必要はない」
ユーリの言葉で視線を戻すと、彼は無表情で森の奥を見据え、鞄の留め金に手をかけていた。
「もう?」
見つけたのか、とマイオールは短く問いかける。
留め金の音を立て、ユーリは静かに答えた。
「見えた」
そう言って取り出したのは黒革の手袋。指を滑り込ませ、握り込む動きで革が鳴った。視線は変わらず森の奥、一点だけを見つめている。
マイオールは彼の視線を追って目を凝らすが、どれも普通の樹木に見える。
「僕には全く識別できないよ。君の眼——」
「マイオール」
ユーリが静かに遮り、鞄を持つ左腕を横に伸ばした。庇うようなその仕草に、マイオールは差し出された鞄を両手で抱えた。
「何?」
マイオールの問いには環境が答えた。梢が揺れ、鳥が飛び立つ。つられて空を見たマイオールの耳に風鳴りが聞こえた。そしてかすかな腐臭。森特有の腐葉土の匂いではなかった。
「瘴気だ。君はここで」
ユーリが黒衣を翻した瞬間、彼の姿はマイオールの視界から消える。草葉がざあっと擦れ、駆け出したユーリの位置がかろうじてわかった。音をたどったその先、深緑をユーリの影が横切る。
その影を追う鋭い風の音。遅れて緑が弾けた。散った葉を、別の何かが薙ぐ軌跡。いくつかの葉が微塵となる。
それはドリアドの仕業だった。
マイオールに認識できたのは音と落葉。あちこちで風切音が鳴り、そのたびに葉が舞う。
「ユーリ……?」
マイオールはつい呼びかけた。姿の見えないユーリを探す。
すぐに見つけられた。彼は一本の若木に向き合い、幹に左手を添えている。瘤と洞のある、不気味な木だった。
「ユーリ」
もう一度彼の名を呼んだとき、風の衝撃が通り過ぎる。不快な臭気が濃くなった瞬間、空気の爆ぜる乾いた音が聞こえた。マイオールはそれがユーリに重なった気がして、目を凝らす。
ユーリは同じ姿勢のまま、ただ頭だけを垂れていた。
続いてぱきり、と硬質な音。
ユーリの頭上から、落ち葉が一枚ひらりと落ちる。次いで、ゆっくりとした動きで枝が垂れ、若木は倒れた。
顔を上げたユーリの頬に木漏れ日が差した。静寂の中、ユーリの声が静かに響く。
「終わった」
声と同時に爽やかな風が吹いた。瘴気の腐臭は、微塵も感じない。
マイオールが近づくと、倒れた若木は老木に変わっていた。立ち枯れたようにも見えるそれは、やはりドリアド。瘤が裂け、赤い樹液が付着している。
マイオールはすぐにユーリの手を取り、傷の有無を確かめる。衣服の上から観察し、ダメージの痕跡がないことを確認すると、右手で彼の首元に触れた。そのまま顎先に手を伸ばし、親指と人差し指で押し上げる。
ユーリはマイオールに逆らわず、彼がなすままに任せ、身動ぎもしない。
マイオールは喉元を見終わると手を滑らせ、その冷たい頬に触れた。
「大丈夫そうだね」
「傷はない」
マイオールはひとつ息を吐き、ユーリに鞄を差し出した。
「はぁ。結局僕にはドリアドの動きは見えなかったよ」
ユーリは無言のまま、受け取った鞄を開け、道具類を取り出した。ロープや自在車、何本かの楔。幹に楔を打ち、そこにロープを引っ掛ける。
「本当に運べるかい?」
マイオールの心配を他所に、ユーリの声は涼やかだった。
「問題ない」
ユーリ自身の体長よりも遥かに長い丸太を引き歩く。接地面に自在車があるとはいえ、常識では考えられない。しかもそのペースと歩幅は、来たときと変わらなかった。
「……君には色々と驚かされるよ」
マイオールがそうこぼしたのも無理もない話ではあった。
森を後にした二人は、言葉少なく街外れの自宅へと戻る。
戻るとすぐに作業に取りかかった。ユーリが鋼線鋸で切り出したドリアド材をマイオールが転がし、自室に運び入れた。
「僕は錬成に取りかかるよ。錬金術師の腕の見せどころだ。君も浴室へ——どうせ汗ひとつかいてないだろうけど、ね」
「わかった。着替えを準備して向かおう」
「几帳面だね。用意ができたら部屋へ。診察はその後で」
ひらひらと手を振り、自室に消えたマイオール。
ユーリはその扉をしばらく見つめ、思い出したかのように自身の手のひらに視線を落とした。開いては握りと二度繰り返し、浴室へと向かう。
静かな時間が流れた。
浴室から出たユーリは着替えを手に、マイオールの部屋を訪れた。扉を開けると、仕切りのカーテンからマイオールが顔を出していた。
「錬成、できてるよ」
同時に、奥に入れと手で示す。
カーテンの奥は錬金術師の研究室そのものだった。手術台のようなベッド、様々な器具、そして角に据えられた大きな錬金釜——それは浴槽のようでもあり、何かを精製する蒸留器のようでもあった。ベッドにはシーツが掛けられ、人の形に膨らんでいる。
マイオールはベッド脇の安楽椅子をユーリに勧め、自身は椅子の傍らに立った。
ユーリは勧められるがまま腰を下ろし、マイオールを見つめる。
「ユーリ、緊張してる?」
マイオールは視線を合わせたまま、ユーリの膝にシーツを被せた。冗談めかした声で問いかけたのは意図してだろうか。
視線を外さないユーリにウィンクを送り、その額に優しく手を当てた。ゆっくりと顔をなぞるように手を下げながら話しかける。
「もしうまくいかなかったら、また錬成し直すよ」
「わかった——」
ユーリの声が途切れ、力の抜けた首が少し傾いた。マイオールはユーリの顔に手を被せたまま、手術台に視線を送った。
「さて、どうかな?」
マイオールが手術台に話しかけると、膨らみが微かに揺れ、まるで眠りから覚めるかのようにゆっくりと上体が起き上がる。シーツがめくれ、現れたその顔は、安楽椅子に座るユーリと同じ顔だった。
「気分はどう?」
「問題なく憑依できた……と思う」
マイオールはその返答を聞き、安楽椅子にシーツを被せた。
ユーリにはそれが、自身への気遣いだと感じ取れた。
「今度の身体は口も開くし、まばたきもできる。思考と動作の同期——タイミングの練習は必要だろうけど、ね」
「マイオール、君に感謝する。それから——人体模型にも」
ユーリはマイオールと、シーツに包まれて安楽椅子に座る過去の身体、人体模型に向かって静かに頭を垂れた。
「君は律儀だね。模型の顔は——後で少し変えておくよ」
「手間をかける。顔を奪ったようで申し訳ない」
「構わないよ。それじゃ、動きの確認といこう」
マイオールの指示に従ってユーリが身体を動かし、動作や関節の可動域を一つひとつ確認していく。ドリアド材の新しい身体。人体模型を元にした以前のものとは違って、自然な柔軟さと弾力を備えていた。発声時の口の動きに不自然さが残るが、マイオールは気にしていない。人体模型で行ったように、身体操作を訓練すれば解消できると感じていた。
「可動域は良好、バランスも——良さそうだね。やはり金属素材にしなくてよかった。鉄はトップヘビーになりやすいし錆びつく。かといって錫や軽銀では強度が足りない。魔法銀がいいかもしれないけど、全身を作るには高価だ。今回は表皮にドリアド樹脂を——聞いてるかい?」
マイオールの問いに、ユーリはまばたきを一度挟み、質問で返す。
「つまり?」
「ドリアド材を選んで正解」
「なるほど」
マイオールの笑みに、ユーリも笑みを返そうとして口角を上げた。上手く表情が作れないが、それは大きな問題ではない。
そのユーリの頬にマイオールの手が伸びた。
「動きと——肌触りも段違いで良くなったね」
「ああ。細かい動きもできそうだ」
ユーリは自身の手のひらを見つめ、開いては握りと二度繰り返す。その滑らかな動きは、人体模型とは明らかに別物だった。頷いて立ち上がり、着替えに取りかかる。
マイオールも頷き、満足げに微笑を浮かべていた。そして、何かを思いついたようにポンと手を叩く。
「そうだ、最終確認は卵でしよう。片面焼きを作ってもらえる? とろりとしたやつを」
「もちろんだ」
二人の間で視線が交わされる。
その日の夕食。半熟の片面焼きは、無事提供された。
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