第三章:深淵への滑落

屋根裏部屋での一件以来、世界の崩壊は加速した。それは、もはや緩やかな侵食ではなかった。深淵への滑落だ。

陽菜の言葉は、ほとんど音にならなくなった。彼女は必死に何かを伝えようと口を動かすが、漏れ出るのは微かな息の音だけ。俺たちは筆談でコミュニケーションを取るようになった。陽菜の小さな指が、スケッチブックに懸命に文字を綴る。

『パパ、わたし、いるよね? きえてないよね?』

その文字を見た時、俺は胸が張り裂けそうになった。陽菜は自分の存在が薄れていくのを、本能的に感じ取っているのだ。彼女の絵は、完全に抽象画と化していた。画用紙には、黒いクレヨンで塗り潰された、のっぺらぼうのような人影がいくつも描かれている。その人影は、どれもが中心が空洞で、まるでブラックホールのように全てを吸い込もうとしているかのようだった。そして、その一つだけ小さく、輪郭が消しゴムで消されたようにかすれた人影は、陽菜自身であることを悟った。

家の異常は、聴覚、視覚だけでなく、五感全てに、そして時間の概念すら歪め始めた。

リビングの壁紙の模様が、不意に一部だけ色褪せている。昨日までは確かにそこにあったはずの花柄のパターンが、まるで古い写真のようにセピア色に変色し、やがては真っ白な空白へと変わっていく。その空白は、じわじわと広がり、壁そのものを浸食しているかのようだった。

食卓に並べた料理の彩度が、見る見るうちに落ちていく。鮮やかだったトマトの赤が、くすんだ朱色になり、やがては灰色の塊になる。味も、香りも、しない。それは、ただの「物質」だった。咀嚼する音すら、口の中で消え失せる。俺たちは、ただの「空虚」を胃に流し込んでいるだけだった。

最も恐ろしかったのは、記憶の消去だった。それは、単に思い出せないのではない。その「記憶が存在したこと」自体が、俺の中から削り取られていく。

美咲の記憶が、薄れていく。

俺は毎晩、美咲の写真を食い入るように見つめ、彼女の声を思い出そうとした。だが、思い出せない。どんな声で笑い、どんな声で俺の名前を呼んだのか。記憶の中にあったはずの彼女の音声データが、綺麗に削除されている。写真を見ても、そこに写っているのは「美しい女性」という記号だけ。かつて俺が愛した「美咲」という存在としての実感が、指の間からこぼれ落ちる砂のように消えていく。

俺は、事故の記憶すら失い始めていた。美咲が死んだという「事実」は覚えている。だが、その時の悲しみや絶望といった「感情」が思い出せない。それはまるで他人事のように、ひどく希薄だった。まるで、俺自身が、事故の瞬間に、感情を置いてきてしまったかのように。

この家は、存在から意味を剥奪していくのだ。音を消し、色を消し、記憶を消し、感情を消す。そして最後に、空っぽになった人間を、どこかへ消し去る。

倉田稔と同じ道を、俺たちも辿っている。いや、もしかしたら、倉田稔は、すでにこの家の「一部」になっているのかもしれない。

ある朝、俺は決定的な恐怖を目の当たりにする。

陽菜がリビングのソファに座っていた。だが、その姿は半分透けていた。向こう側の壁紙の模様が、陽菜の体を透かして見えている。陽菜は泣いていた。もちろん、声も涙もなかった。ただ、その小さな体が、存在の危機に瀕して、静かに、静かに震えていた。彼女の瞳は、もはや俺を映しておらず、その奥には、ただ、深い空白が広がっているだけだった。

もう時間がない。このままでは、陽菜が完全に消えてしまう。存在そのものが、この静寂に溶け込んでしまう。

逃げなければ。この呪われた家から。

俺は陽菜の手を掴んだ。その手は氷のように冷たく、実体がないかのように軽かった。玄関のドアノブに手をかける。

だが、ドアが開かない。

鍵はかかっていない。だが、まるで空間そのものに溶接されたかのように、びくともしない。窓も同じだった。叩き割ろうと椅子を振り下ろしても、椅子はスローモーションのように窓ガラスに吸い込まれ、コツン、と小さな音(のようなもの)を立てるだけだった。ガラスは割れない。まるで、俺の力も、物体としての存在感も、全てがこの家の中で減衰していくかのように。

閉じ込められた。ここは倉田稔が作り出した、音を喰らうための捕獲装置。入ることはできても、出ることは許されない。この家そのものが、俺たちの存在を捕食する、巨大な口腔なのだ。

絶望が、俺の心を塗り潰した。どうすればいい。何をすれば、この静寂の悪魔から逃れられる?

その時、俺は倉田の日記の、ある一節を思い出した。

『…静寂が事象を消去するならば、その逆は? 意味を持つ「音」、指向性を持つ「言葉」、それらをぶつければ、この静寂の構造を破壊できるのではないか? だが、もはや私には、意味のある言葉を紡ぐだけの記憶が、残って…そして、その音を、もう世界に響かせることも…』

これだ。ヒントは、これしかない。

この家は「意味のない音」を吸収し、消去する。ならば、圧倒的な「意味」を持つ音を、この家の許容量を超えるほどの情報量を持つ音を、ぶつければ。

俺は、サウンドデザイナーだ。音を創造し、構築するプロだ。

戦うしかない。俺の持てる全ての知識と機材、そして記憶を使って。

この静寂と、戦う。

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