音のない家

クソプライベート

序章:無音の代償

音は、世界の輪郭であり、生命の息吹だった。俺、冬月海人(ふゆつき かいと)にとって、それは職業であり、情熱であり、そして今となっては贖罪の物語の始まりを告げるものだった。サウンドデザイナーとして、俺はあらゆる音を操った。生命のない物体に声を吹き込み、沈黙した空間に鼓動を与えた。だが、あの日、俺が聞くべきだった音――雨に濡れたアスファルトを滑り、摩擦熱で白煙を上げるタイヤの絶叫、衝突の寸前に妻の美咲(みさき)が漏らした、か細い最期の吐息――それらの全ては、鋼鉄とガラスの衝突が作り出した、圧倒的な「無音」に塗り潰された。

俺は軽傷。後部座席で眠っていた娘の陽菜(ひな)も、奇跡的に無傷だった。ただ、美咲だけが、永遠の静寂へと誘われた。俺の、手の中で。

事故から一年。喪失感と罪悪感に苛まれ、東京の喧騒は耐え難いものとなっていた。俺と陽菜は、郊外の、森に囲まれた古い一軒家に越してきた。不動産屋は口ごもった。「少々、過去に…複雑な経緯がありまして。しかし、その分、お安くなっております」美咲の生命保険金で買った、懺悔の家。だが、その静けさが、傷ついた陽菜の心を癒し、俺に心の平穏をもたらすと、愚かにも信じたのだ。

家の内部は、古めかしいが手入れは行き届いていた。しかし、違和感があった。まるで、絨毯も、厚い漆喰の壁も、木製の床も、世界から発されるあらゆる音を吸い上げるために設計されたかのようだった。室内に響くはずの、微かな物音すら、あっという間に消え失せる。

その奇妙な静寂が、ただの「音のなさ」ではない、もっと根源的な「不在」であることに、俺が気づくのに時間はかからなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る