No.004|白花の置き配 — 探す紙から、送る紙へ

 ※この話だけで読めます(シリーズ未読OK)

(約6分)


 夕暮れの社に白紙が貼られ、若者が五本線を引いた。風鈴が五回だけ鳴り、黙る。老女が白紙の端を押さえる。私の端末が震え、《受付—残り 1:56》。今夜の窓は、日没から二時間だけだ。


「——名は?」

 背後でフードの気配。私が「天使」と呼ぶ子が、息を潜める。

「ない。刻限だけ」

「名がないなら、終わりやすい」


 私は頷き、屋上へ戻る階段を上った。夜の街は重なっていて、正面からは見えにくい「裏側の道」が時々ある。

 人の足は空白で折り返す。竜の背だけが、前へ行く矢印を覚えている。



 段ボールの封緘を撫でると、印字の下に白い花の匂いがわずかに混ざっている。私はラベルの片隅に刻まれた五本の短線を指で確かめ、竜の鼻先へ箱を寄せた。

「覚えて」

 竜は一息で匂いを飲み込み、黒曜の鱗がぴんと鳴る。うなじの棘が順に起き、風が層になる。


 社の裏で帳守の老女が、依頼者に小声でたしかめているのが聞こえた。

「——もう一度だけ言うよ。本当に、これでいいね?」

 間をおいて、「はい」という返事。私はそこで初めて、竜の背に手をかけた。合意の一言が、夜を軽くする。



 着地したのは古い区画のはずれ。低い石積み、雨水の溜まった側溝。その向こうに、白い花で覆われた壁があった。塗装ではない。薄い花びらが、夜露で重くなって揺れている。


 私は段ボールを抱え直し、壁に顔を寄せた。塗り直しの帯が薄く走っている。竜の吐息をそっと当てると、冷えた壁面に微細な水膜が生まれ、帯は線に変わって浮かぶ。私は空に五本の線を指でなぞる。竜が呼吸を合わせ、天使が数を揃える。映った線と花影が重なり、一時的な鍵の絵になる。


「ここで、配を確定する」

 私は石積みに段ボールをそっと置き、ラベルの短線へ指の腹を沈める。紙がわずかに冷たくなり、端末の画面が青へ変わった。《配完了—残り 1:21》。


「——開ける?」

 天使は封筒を取り出したが、封は切らない。指で縁を撫で、呼吸を整える。読むのは文字ではない。空白の厚みだ。白花が、彼女のリズムに合わせてわずかに揺れた。


「四回だったら、やめるからね」

「五回だった。だから、今は行ける」

 私は答える。風鈴の回数は、夜の秤だ。


 胸の内側で、何かが軽くほどける。今夜の代償は小さくて済む。たとえば、コンビニのコーヒーの味の区別を一段だけ鈍くする。誰も傷つかない場所で、少しだけ手放す。——いつも通りの夜のやり方。


 天使の指が止まる。白花の壁の縫い目が組み替わり、見えない路がひとつ、静かに通る。誰かが探していた掲示は、ここではもう探す掲示でなくなるだろう。明日の朝には「見つからないこと」が貼られる。貼り替えは、終わりではない。やり直す許可だ。


「……これで、あの家の掲示は終わる」

 天使が小さく言った。「探している紙は、送り出す紙に変わる」


 彼女は封筒を箱に戻し、蓋を閉じた。壁の線はほどなくして消え、香が風にほどける。「配達は往復じゃない」と私は自分に言い聞かせる。「前進だ」



 帰る前に、帳守が影の中から一度だけ現れた。公民館の腕章、白髪をひと束、低い声。

「夜分、助かったよ。——名前は、記さない」

 私は頷く。老女は白紙の端を指で押さえ、風鈴の紐を一度だけ整えた。

「もし四回しか鳴らなかったら、今夜はやめるところだった。明日の朝、白紙のまま止め直す」

「わかってる」

 それで十分だ。私はラベルの端を押し、五本の短線が壁の向こうへ沈む感触を指先で受け取る。端末が短く震え、《完了》が青に変わる。竜が鼻を鳴らし、足を一歩、前へ。


 帰り道は、来た道と同じじゃない。配達は往復じゃない。前進だけだ。



 夜は少し薄くなっていた。遠くの水銀灯が音もなく消え、空の低いところに朝の灰が滲む。私は段ボールの残り香を確かめ、天使にうなずく。

「——何か捨てた顔してる」

 天使が笑う。私は肩をすくめた。

「たぶん、安いブレンドの区別が前みたいにはつかない」

「代わりに?」

「壁の冷たさと、花の匂いは長く残る」


 端末がもう一度だけ震えた。新しい受注ではない。《ログ更新》。画面隅の小さな青い点がひとつ増え、地図の一部、名の抜けた街区が薄い色で塗り替わっていく。誰かが、その空白を受け取ったのだ。竜のうなじを撫で、天使はフードを整える。


「次は?」

「同じ町内。でも今度は、橋の下」

「静かな鍵が要るね」

「静かなやつ」


 払ったぶんだけ、前へ延びる。——返す日に、少しだけ近づいた。


 風が変わる。紙の匂いが薄れ、川の匂いが強くなる。五本の短線はもう視えない。けれど指は覚えている。紙の冷たさ、花の白さ、そして——届けた後の静けさを。


 ——翌朝、あの掲示板の前で、立ち止まる人はいなくなった。ただ足取りが、少しだけ軽い。


(あなたの町の掲示板に、白紙はありますか。)


――――

次は → No.009(約7分):

https://kakuyomu.jp/works/822139836867743506/episodes/822139836869085434

ガイド → 第0話:

https://kakuyomu.jp/works/822139836867743506/episodes/822139836868384701


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