適合率測定不能 ~バグまみれのロスト・コードで神話世界を制圧する~
クソプライベート
第1話【鬼を宿す日】
意識が、ノイズの海に沈む。
錆びた鉄と古いオイルの匂いが、思考にまで染み込んでくるようだ。ここは他人の記憶の深層。極彩色のデータが奔流となり、神経を直接掻き回す。
「……ジン、聞こえるか。ターゲットの記憶領域(メモリ・バンク)、最深部に到達」
くぐもった声が、シナプス・リンク越しに届く。オペレーターのクロウだ。
「了解。派手にやれ」
ジンは短く応え、思考を加速させた。記憶潜航(ダイブ)用のアバターが、防御壁(ファイアウォール)をすり抜ける。ターゲットは中層「葦原」の小役人。奴が隠蔽した八咫烏(ヤタガラス)コーポレーションとの不正取引の証拠を掴むのが、今回の仕事だ。違法だが、この最下層「黄泉比良坂(よもつひらさか)」で生きるには、これしかない。
アラートが鳴り響く。紅蓮の炎を纏った番犬型のセキュリティ・プログラムが牙を剥いた。ケルベロス。ありきたりな神話の引用。
「退屈だ」
ジンは指を鳴らす。思考がコードに変換され、電子の海に波紋を広げる。ケルベロスの足元が液状化し、プログラムは自重で崩壊した。データの残骸を蹴散らし、最深部へ。目当てのログデータを掴み取る。
仕事は終わり。後は浮上するだけ。
その瞬間だった。
『――兄さん!』
シナプス・リンクに割り込んできた絶叫。妹の声。マナの声。
「マナ!? どうした!」
経験したことのない、強烈なノイズが思考を遮る。熱い。頭が割れるように痛い。
『助けて、兄さん、頭の中に、誰かが――』
ブツン、と通信が途絶えた。同時に、現実世界のアラートが最大音量で鳴り響く。
「ジン! マナ嬢ちゃんのバイタルアラートだ! 葦原中央病院から緊急搬送通知が来てる!」
クロウの焦燥した声。ジンの意識は、無理矢理、現実へと引き戻された。
◇
酸性雨が、絶え間なく降り注いでいた。
西暦2095年、新京都。空は見えない。代わりに視界を覆うのは、上層から伸びる無数のパイプと、毒々しいネオン広告だ。「安らかな眠りを、八咫烏メディカル」「《神闘戯(ラグナロク・アリーナ)》次期王者決定戦!」。ホログラムの芸者が、無表情で踊り続けている。
記憶潜航用のチェアから転がり落ちる。全身が汗で濡れ、呼気が荒い。首筋のポートが焼けるように熱い。
「マナは……!」
「落ち着け! 診断は『神話汚染(ミシック・コントミネーション)』。それも重度だ」
神話汚染。人々がその身に宿す「神格コード」――神話の能力を再現するプログラム――が暴走し、精神を侵食する現象。適合率が高すぎると発症し、最悪の場合、人格が崩壊する。
「馬鹿な。マナは適合率が低いはずだ!」
ジンは事務所を飛び出した。生ゴミと錆びた金属の匂いが混ざり合う黄泉比良坂を抜け、中層・葦原行きの巨大リフトに飛び乗る。
葦原中央病院。集中治療室の強化ガラス越しに、ジンは立ち尽くしていた。
ベッドに横たわる16歳の少女。ジンの唯一の家族。マナの体には無数のチューブが繋がれ、か細い呼吸を繰り返していた。首筋には、データがバグを起こしたかのような奇妙な痣が浮かんでいる。
「原因不明です」白衣を着た医師が、感情の欠落した声で告げた。「彼女の脳波パターンは、既存のどの神格コードとも一致しません。未知のコードによる汚染です。正直、我々の手に負えません。八咫烏の専門施設に移送するしか……」
八咫烏。この都市の支配者。その名を耳にした瞬間、ジンの背筋に冷たいものが走った。八咫烏の施設に送られれば、マナは実験動物として扱われるだけだ。
「断る。俺が治す」
「不可能です。彼女の精神は完全にロックされています」
医師は、壊れた機械の廃棄を宣告するように言い放った。
絶望が、ジンの心を塗りつぶしていく。
「……方法が、ないわけじゃない」
背後から声がかかった。古びたサイバネ義手を装着した老人。黄泉比良坂の闇医者、ドク・イズナだった。
「ドク……」
「ついてこい。毒を以て毒を制すしか、道はない」
◇
ドクの診療所は、廃棄された地下鉄の車両を改造したものだった。消毒液とオイルの匂いが充満している。ドクは、コンソールから一つのデータチップを取り出した。黒曜石のように黒く、鈍い光を放っている。
「こいつは、『ロスト・コード』と呼ばれている」
「ロスト・コード……?」
「どの神話体系にも属さない、禁忌のバグデータだ。旧世代ネットワークのAIの残骸とも言われている。こいつは、他の神格コードを侵食し、書き換える特性を持つ」
ドクは淡々と説明する。「こいつをお前の脳にインストールし、マナの精神に潜航(ダイブ)して、直接原因をハッキングする。それが唯一の可能性だ」
「リスクは」
「成功率は五分以下。失敗すれば、お前は廃人になるか、コードに精神を乗っ取られバケモノと化す」
迷いはなかった。
「やれ」
ジンは手術台に身を横たえた。ドクが、極太のデータ転送ケーブルを手に取る。その先端は、鋭利なニードルになっていた。
「言っておくが、これは治療じゃない。呪いだ。お前は今から、神ならぬ何かをその身に宿す」
「上等だ。神とやらに祈って救われるなら、誰もこんな最下層(ここ)にはいない」
ジンは歯を食いしばった。
「……転送開始」
ニードルが、ジンの首筋のポートに突き刺さった。
瞬間。世界が、爆発した。
「があああああああああッッ!!」
焼けた鉄板を脳髄に押し付けられたような、凄まじい激痛。視界が明滅する。ありとあらゆる情報が、洪水となって脳内に流れ込んでくる。断片的な映像。意味をなさない言語。旧世界の戦争の記録。死んだAIの絶叫。
意識が、バラバラになっていく。自分が誰だったのか、分からなくなる。マナ、マナ、マナ。妹の名前だけが、辛うじて彼をこの世に繋ぎ止めていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。やて、嵐が過ぎ去った。
ジンは、荒い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと目を開けた。
視界はクリアだった。いや、クリアすぎる。空気中を漂う塵、壁を這う電子回路のパターン。全てが、解像度を増して見えた。
「……適合、したのか」ドクが驚愕の声で呟いた。
ジンは体を起こす。違和感はない。だが、何かが決定的に変わっていた。頭の奥底。意識の最深部。そこに、自分ではない何かがいる。
《…………》
声が、聞こえた。低く、地を響かせるような、酷く飢えた声。
《……もっとだ……もっと、喰わせろ……》
それは、彼の中に宿った「鬼」の、産声だった。ジンの唇が、無意識に歪む。神々のロジックさえハックする、孤独な戦いが、今、始まった。
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