天使と王子の4センチ
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第1話 はじめての2メートル
朝の光はまだ春になりきれず、教室の窓ガラスを透かすと白くにじんでいた。
始業式明けの教室。クラスメイトたちの笑い声は新しい名前を覚える勢いと混ざり合い、やや浮ついた空気を作っている。
その中心にいるのは、男子たちの視線を集めるひとりの少女――天野夢。
「天使みたい」「癒される」「やっぱ笑顔が違う」
彼女の席の周囲ではそんな言葉が自然にこぼれ、まるで空気のように広がっていく。
夢はそれを知っている。けれど、照れるでもなく、淡い笑みで受け流す。
花屋の娘として染みついた“笑顔の技術”。それは無邪気に見えるが、実は防御でもある。
彼女の隣の窓際。
黒髪ショートに、少し長い睫毛。制服をきっちり着こなし、背筋を伸ばして座る生徒がもう一人。
窪田玲。
――女子人気ナンバーワンの女子。
その整った立ち姿と、誰にでも丁寧な口調、親切な対応。荷物を持てば自然と「ありがと」と言われる所作。
“王子様”と呼ばれることを本人は否定しない。ただ、「照れるね」と笑って受け入れる。
その笑みがまた誰かの心を射抜く。
彼女たちはどちらも、他人の目の中で生きることに慣れた人間だった。
同じ教室にいても、まるで鏡の裏表みたいに、互いに違う方向から“人気”を背負っている。
フリージアを挿した花瓶の前で、夢がふっと息を吐く。
その香りに反応するように、後ろから声が届いた。
「今日も人気者だね、夢ちゃん」
振り向かなくても誰かわかる。
夢は花の位置を整えながら、少しだけ口角を上げた。
「普通にみんなでワイワイ言ってただけだよ」
玲は机の縁に手を置いて、笑う。
「うん。でも、僕にはその“普通”が難しいんだよね」
その言葉を聞いた瞬間、教室の空気がふっと静まった気がした。
数人の男子がこちらをちらりと見て、女子たちは小声で「また始まった」と笑い合う。
“女子人気No.1”と“男子人気No.1”のふたり。
お互いに興味がないわけがない――周囲の誰もがそう思っている。
けれど当の本人たちは、ただ静かに花を整える。
玲の声は、教室の雑音の中でもなぜか真っすぐ届いてくる。
「……じゃあ、ルールを決めようか」
夢が言った。
指先は花瓶の縁をなぞりながら。
「ルール?」
「人前では――2メートル以上、近づかない」
玲は少し目を瞬かせ、それから、ふっと笑った。
「了解。教室はパブリックスペースだ。うん、2メートルだね。」
「そう」
「じゃあ、放課後の花屋は?」
「……それは、“公”と“私”の境目にあるから、4センチメートルまで」
「なるほど。商店街特例だね」
ふたりの会話に周囲の笑い声が混ざる。
「2メートル・ルールって何?」「まだ付き合ってないの?」「もう結婚しろよ!」
夢は笑って聞こえなかったふりをする。玲ちゃんも同じように笑う。
けれどその笑みの奥に、二人だけが共有する小さな秘密の線があった。
***
昼休み、屋上。
風が制服の袖を揺らす。空は澄んでいて、雲の境界がくっきりしている。
玲は女子たちに囲まれていた。
「窪田先輩、写真撮ってください!」
「副会長、またSNSでバズってますよ!」
“女子の憧れ”としての彼女は、王子様のようにスマートに対応する。
でも、その視線の隙間で、夢の方をちらりと見る瞬間を、夢は逃さない。
昼休みが終わる15分前。二人はようやく二人になる。
夢はお弁当を開きながら言った。
「人気者っていうのも、案外大変だね」
「うん。たまに自分が“人”じゃなくて、ラベルみたいに感じる」
「玲ちゃんでも?」
「玲ちゃんだから、かもね」
「……わかる。笑顔を貼り続けるの、けっこう疲れる」
風が二人の間を抜ける。
距離は2m。けれど、その風の温度がほとんど同じなのを、夢は感じた。
「聞いていい? 夢ちゃんは、どうしてそんなにみんなに優しくできるの?」
「職業病だよ。花屋って、笑ってないと花まで萎れる気がするから」
自分だけが知る「天使」の素顔に触れて、玲は笑う。
「じゃあ僕も、笑ってないと誰かが萎れちゃうかも」
「女子の人気ナンバーワンが何言ってるの」
「夢ちゃんの前だけ、例外でいい?」
夢は少しうつむき、箸の先で卵焼きをつまむ。
「……相談にのる、くらいなら、まあ」
「相談料、卵焼き一個でどう?」
「我慢できるの?」
「実は痛い」
「仕方ないなあ」
玲ちゃんの箸が静かに伸びる。
卵焼きが彼女の弁当箱に移る瞬間、風が止まる。
小さな音もなく、ただ呼吸だけが重なった。
2mと4cm。その差が、今日の全部を定義していた。
***
放課後。
夕陽が窓を橙色に染め、廊下には部活へ急ぐ靴音が響く。
夢は家に帰る途中、交差点で足を止めた。
向かい側には、部活帰りの玲。
女子生徒たちに囲まれながらも、視線だけはこちらを探している。
目が合った瞬間、ふたりの笑みがそろう。
その一瞬だけ、周囲の喧騒が遠のいた。
「夢ちゃん!」
信号が青になる。
玲が駆け寄ろうとして、ふと足を止める。
2mのラインを思い出したように。
夢も立ち止まり、指で空中に“2”と描いた。
玲が小さくうなずく。
そのやり取りを見た友人が、「やっぱあの二人、結婚前提だって!」と叫ぶ。
夢は頬を赤くして笑いながら、手を振った。
けれど胸の奥では、別の感情が静かに渦を巻いている。
――女子の憧れである玲ちゃんが、自分にだけ向ける眼差し。
それがどれほど危うくて、愛おしいものか。
その責任を取れるほど、自分はまだ強くない。
だからこそ、ルールが必要だった。
2mと4cm。
数字は境界であり、祈りの形だ。
触れない距離の中でこそ育てられる想いがある。
夢はそれを信じていた。
夕陽が沈みかけた街角。
ガラス越しに映る二人の影は、まだ完全には重ならない。
けれど、確かに――同じ方向を向いている。
(つづく)
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