第9話 神々の晩餐 ― 味覚の果てで ―(前編)
東の空が、紫に染まっていた。
俺たちは、長い旅の果てに“神々の山”と呼ばれる地へ辿り着いた。
地図にも載らない世界の端。雲を突き抜けるような峰がそびえ、麓には草一本すら生えていない。
「ここが……神の座す場所か。」
エルナが息をのむ。
風も止まり、音が消えている。まるで世界そのものが息をひそめているようだった。
『空気が重いな。』
ルーファスの声にも、緊張が混じっている。
『神域だ。人間が踏み入ること自体、奇跡だろう。』
俺は一歩、前へ出た。
足を踏みしめるたび、地面が微かに光る。
光は筋となって山の頂へ続き、まるで道を描くように輝いていた。
「……行こう。呼ばれてる。」
山道を登るにつれ、空気が澄んでいく。
風の音も、鳥の声もない。ただ、自分の呼吸だけが響く。
やがて、視界が開けた。
そこに広がっていたのは、巨大な円形の神殿。
大理石のような床が広がり、中央には長い円卓があった。
だが、その椅子には、誰も座っていない。
静寂の中で、声が響いた。
「来たか、料理人。」
光の粒が集まり、一人の男が姿を現した。
以前、雨の中で出会った“饗宴神メルクス”だ。
だが、今回は彼だけではなかった。
その背後に、四体の神が立っていた。
炎を纏う女神、氷の髪を持つ少年、金色の羽を持つ男、そして――無貌の影。
「彼らが、我ら“味覚を司る四柱”だ。」
メルクスの声は穏やかだが、その奥に試すような気配があった。
「お前の料理が“人の心”を満たすことは理解した。
だが、神々は問う。“満腹”とは何か。“味”とはどこにあるか。
答えを見せよ。」
「……つまり、食の定義を超えろってことか。」
俺は深く息を吐いた。
世界を救うとか、戦争を止めるとか、そんな話よりも、ずっと難しい。
「いいだろう。挑むさ。」
メルクスが手をかざすと、円卓の上に五つの皿が現れた。
「ここに料理を並べよ。五つの皿で、五つの味覚を示せ。
――それぞれの神が、お前の味を“食う”。」
炎の女神が口を開いた。
「我は“辛”を司る。炎の味だ。熱を知らぬ者に情熱は宿らぬ。」
氷の少年は、冷たい声で言った。
「我は“甘”。永遠の静寂とやさしさ。冷えた味ほど、真実を映す。」
羽の男が微笑む。
「我は“酸”。変化を愛する。腐敗も発酵も、同じ命の循環だ。」
無貌の影が低く響いた。
「我は“苦”。死と再生を司る。汝の料理が死を越えうるか、見せてみよ。」
そして、メルクスが最後に言った。
「我は“塩”。あらゆる味を結ぶもの。汝の料理に“意味”を加える。」
五つの味。
それは、料理人として、そして人としての全てを問う試練だった。
俺は荷を置き、静かに鍋を取り出した。
ルーファスとエルナが背後で見守っている。
この瞬間、もう余計な言葉はいらない。
火を灯す。
まずは“辛”。炎の女神の前で、香辛料と油を合わせる。
スパイスが爆ぜ、空気が震えた。
汗が滲む。だが、それは熱ではなく、命の鼓動だ。
「辛は、生きている証だ。
痛みを知るからこそ、人は動ける。」
女神が口をつけ、笑った。
「よい。生きている炎の味。」
次に、“甘”。
氷の少年の前で、蜜を薄く溶かし、果実を煮詰める。
ゆっくりと冷まし、透き通った飴のように仕上げた。
「甘さは静けさの中にある。
何も語らずとも、口の中で世界が溶ける。」
少年は頬を緩めた。
「甘さの底に悲しみがある。……悪くない。」
“酸”の男の前では、果汁を発酵させ、わずかな泡を立てた。
「変化を恐れずに受け入れる。
酸は腐敗ではない。新しい命の予兆だ。」
男は杯を掲げ、笑った。
「見事だ。発酵の音が心地よい。」
“苦”の影の前では、焦がしたハーブと骨の出汁を合わせた。
香りは強く、黒い煙が立ちのぼる。
エルナが思わず鼻を覆ったが、俺は微笑んだ。
「苦は終わりの味だ。
けれど、終わりがあるから始まりがある。」
影が静かに頷いた。
「死を恐れぬ料理人よ。汝はすでに“命の循環”を知っている。」
最後に残ったのは、“塩”。
メルクスが見守る中、俺は手に小瓶を取り出した。
それは、旅の途中で集めた塩。
氷の国の雪、砂の王国の涙、風の都の霧、そして雨の雫。
それらを一つに混ぜ合わせた。
「塩は、すべての味を繋ぐ。
それは祈りの結晶であり、命の証。
この塩で、世界を一つの皿にまとめる。」
皿の中央に、わずかひとつまみ。
光が走る。
炎、氷、風、雨――すべての元素が共鳴した。
ウィンドウが展開する。
【創造料理:世界を結ぶスープ】
【効果:全属性共鳴/感情同期率100%/神域適応完了】
神殿全体が震えた。
五柱の神々が同時にその香りを吸い込み、目を閉じる。
やがて、メルクスが口を開いた。
「……味とは、記憶だ。
汝の料理は、過去と未来を結んだ。」
炎の女神が頷く。
「我らは満たされた。だが――」
氷の少年が続ける。
「満腹とは、ただ腹を満たすことではない。
汝が作るべきは、“空腹の先の料理”だ。」
メルクスがゆっくりと歩み寄る。
「神々は問う。汝はなぜ料理を作る? なぜ与える?
飢えが消えたとしても、なお食を求めるのはなぜか。」
その問いに、俺は即答できなかった。
人を救うため、笑顔を見たいから――それは確かに理由だった。
だが、この問いはもっと深い。
「……わからない。けど、作り続けたい。
食うことが“生きること”なら、料理はその記録だ。
誰かが生きた証を、味で残したいんだ。」
メルクスが目を細めた。
「ならば、後編の試練に進め。
“空腹の意味”を知れ。
それを越えた時、汝は神々と並ぶであろう。」
光が再び走り、神殿の奥に扉が現れた。
その先に、まだ知らぬ世界の香りが漂っていた。
次回 第9話後編「空腹の意味 ― 失われた一皿 ―」
神々の試練、最終段階。
ユウタが見つめるのは、かつて彼自身が“飢えていた記憶”。
料理人として、人として――“満たされること”の本当の意味が問われる。
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