第5話 氷の国の少女と、温かいスープ

 風が鳴いていた。

 吹き荒れる雪の中、俺は毛皮のフードを深く被った。

 ルーファスはその隣で無言のまま歩く。彼の吐く息は白く、竜の血を持つ者でも寒さを嫌うようだった。


「ここが……氷の国ノルデンか。」


 見渡す限り白銀の世界。

 凍てついた川、崩れかけた橋、遠くに見える石造りの砦。

 人の気配は薄く、焚き火の煙さえ上がらない。


『人の匂いがしない。村が、もう……。』


「飢えてるんだろうな。」


 王都から聞いた話では、この国は三年連続の飢饉に苦しみ、隣国との交易も断たれているという。

 戦を止めても、腹は満たされない。

 食べ物がなければ、争いは再び始まる。


 だから俺は来た。

 食べさせるために。


 雪を踏み分けながら進むと、小さな村が見えた。

 家々は半ば雪に埋もれ、扉には氷がこびりついている。

 その中の一軒、わずかに煙の上がる家を見つけ、戸を叩いた。


「誰か、いますか?」


 しばらくして、扉がわずかに開く。

 顔をのぞかせたのは、白い髪の少女だった。

 年の頃は十五、六。瞳は透き通るような青。

 だが、その頬は青白く、腕は骨のように細い。


「……旅の人?」


「そうだ。食料を分けてもらえないかと思って。」


 少女は微かに笑った。

「食料……? そんなもの、もうこの村には残ってないよ。」


 その声は風のように冷たく、それでもどこか壊れそうなほど静かだった。


「俺に少し時間をくれ。代わりに、温かいものを作る。」


 少女の眉がわずかに動いた。

「……温かい?」


「火を使うだけでもいい。体を冷やすな。」


 少女は少し迷ったあと、扉を開けてくれた。


 中は薄暗く、暖炉には煤が残っていた。

 俺は荷から鍋を取り出し、氷を溶かして水を作る。

 持ってきた乾燥野菜と干し肉を入れ、弱火で煮始めた。

 やがて、湯気が立ちのぼり、香りが部屋を満たしていく。


 少女がそっと椅子に腰を下ろした。

 その瞳が、炎の明かりを映している。

 それだけで、この家が少しだけ明るくなったように見えた。


「いい匂い……。こんな匂い、久しぶり。」


「名前、聞いてもいいか?」


「エルナ。……あなたは?」


「ユウタ。料理人だ。」


「料理人……? こんな場所に?」


「食べてもらうために、来たんだ。」


 少女は信じられないというように笑った。

 その笑いが、ひどく痛々しかった。


「誰もそんなこと言わないよ。みんな、自分の分を守るのに必死だから。」


 俺はスープをかき混ぜながら、静かに言った。

「だからこそ、誰かが作らないと。腹が減ってる奴は、笑うことも、戦うこともできない。」


 湯気がふわりと少女の頬を撫でた。

 やがて、鍋の中のスープがちょうど良い色に変わる。

 琥珀のような輝き。

 俺は木の椀によそい、差し出した。


「熱いから気をつけて。」


 少女はおそるおそる両手で受け取り、口をつけた。

 一口、二口。

 その頬に、ほんのりと色が戻っていく。


「……あったかい。」


 その言葉は、雪よりも静かで、それでいて涙より重かった。


 エルナは器を抱えたまま、目を伏せた。

「私、もう味なんて忘れてた。……お母さんが作ってくれたスープに似てる。」


「きっと、覚えてたんだよ。舌が。」


 ウィンドウが光る。


【特殊効果発動:記憶の再現】

【スキル反応:魂の温度、上昇】


 部屋の空気がわずかに揺れ、暖炉の火が一段と明るくなった。

 氷に閉ざされた窓の外で、雪が静かに溶け始める。


 その夜、村人たちがひとり、またひとりと家に集まってきた。

 匂いに誘われたのだ。

 俺は鍋を大きくして、スープを分けた。

 笑う声が生まれ、歌が響く。

 わずか一晩で、凍りついた村が生き返るようだった。


「不思議だな。」

 エルナが火を見つめながらつぶやいた。

「スープだけで、みんなが笑ってる。」


「腹が満ちると、心もあったまるんだよ。」


「あなた、旅の途中なんでしょう? これからどこへ行くの?」


「南の砂漠。そこにも、飢えた人がいるらしい。」


「……そっか。」

 少女は少しだけ、唇をかんだ。

 そして小さく言った。

「私も、行っていい?」


「危険かもしれないぞ。」


「このままここにいても、凍るだけだもの。」

 その瞳は、雪の奥で光っていた。


 俺は笑って頷いた。

「なら、明日から助手だ。火の番と味見、頼むぞ。」


「うん。」


 翌朝、村を出るとき、太陽が昇り始めていた。

 氷の表面に光が反射し、世界がゆっくりと色づいていく。

 ルーファスが歩きながらつぶやく。


『人間の少女を連れて行くのか。』


「ああ。彼女は、火を忘れない。」


『火、か。……料理人らしい言葉だな。』


 俺は笑い、背中の鍋を叩いた。

 まだ中には、少しだけスープが残っている。

 飲み干す前に、もう一度だけ風に乗せて香りを漂わせた。


「どこに行っても、あったかい匂いを作れるさ。

 料理ってのは、心の天気予報みたいなもんだからな。」


 吹雪が遠ざかり、空の青がのぞく。

 その中で、エルナの髪が陽光を受けてきらめいた。

 彼女は振り返らずに言う。


「次は、どんな味を作る?」


「まだわからない。けど――きっと、誰かを笑わせる味だ。」


 その言葉に、ルーファスが低く笑った。

 そして雪原の先を指差す。


『あれを見ろ、ユウタ。あの先が、砂の国だ。

 冷たさの次は、渇きだ。』


「了解。じゃあ、次は“水の味”を作る旅だな。」


 旅路は続く。

 世界のどこかに、まだ満たされぬ腹と心がある限り。


次回 第6話「砂の王と涙の果実」


乾きの国サーレで、王は水を独占し、民は渇きに苦しむ。

ユウタが作る“涙の果実スープ”が、王の心を打つ――。

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