第5話 騎士の涙、王子の決断
夜明け前の空気は、氷のように冷たかった。
城の塔から見下ろす街は、まだ眠りの中にある。
その静寂の中で、私は誰にも言えない痛みを抱えていた。
――好きになってはいけない人を、好きになった。
それがわかっていても、もう止められない。
レオニード様の微笑も、言葉も、すべてが胸に焼きついて離れない。
でも、その人の隣には、もう別の誰かがいる。
“騎士”という名の、彼の本当の恋人が。
私は塔の窓辺に寄り、夜風を吸い込んだ。
その風が冷たいはずなのに、胸の奥は熱い。
まるで心そのものが燃えているようだった。
*
扉が開く音がした。
振り向くと、そこにいたのは――カインだった。
「……こんな時間に、何をしている」
「眠れなくて」
私の答えに、彼は眉をひそめた。
今夜の彼は鎧ではなく、黒の軍服姿。
月光が肩の紋章を照らしている。
「殿下のところへ行くつもりですか」
「……いいえ」
「なら、なぜここに」
問い詰めるような声。
けれど、その瞳の奥にあるのは怒りではなく――悲しみだった。
「あなたたちのことを、責めるつもりはありません」
そう言うと、彼の表情がわずかに揺れた。
「……聞いたのか」
「見てしまいました」
沈黙。
遠くで、鐘の音がひとつ鳴った。
「殿下を、どう思う?」
「好きです」
即答だった。
考えるより先に、心が答えていた。
カインの瞳が大きく見開かれ、すぐに伏せられる。
「……それは、殿下を壊す」
「違う。私が壊れるだけです」
思わず笑った。
涙が滲んでいたけれど、笑うしかなかった。
「あなたは、殿下を守りたいんでしょう?」
「当然だ」
「私も、そうです。……守りたい。好きだから」
その瞬間、彼が息を呑んだ。
ゆっくりと、私の方へ歩み寄る。
そして、わずかに震える手で私の肩を掴んだ。
「――あの日、殿下は私を助けた」
カインの声が震えていた。
初めて聞く“彼自身の物語”。
「私の村は、王都の政争に巻き込まれた。
貴族の陰謀で、罪を着せられた私は、処刑されるはずだった。
そのとき、殿下が現れたんだ。
“王子としてではなく、人間として”私を救ってくれた」
カインの拳が震える。
目尻に、光るものがこぼれた。
「……私は誓った。殿下を命に代えても守ると。
だから、どんな形でも傍にいたかった。
たとえ、私の想いが報われなくても」
「報われてないんですか?」
思わず問うと、彼はかすかに笑った。
「殿下は私を“友”として愛している。
それで十分だと思っていた。
でも――君が現れてから、殿下が変わった」
カインの声が低く沈む。
「笑うようになった。
君を見る目が、まるで春を見ているようだった。
……だから怖いんだ。君が、殿下を奪う気がして」
私は首を振った。
「奪うなんて、そんな……。私は――」
「違う。君が悪いわけじゃない」
カインの手が、私の頬に触れる。
温かい。
涙が落ちたその指先は、剣よりも脆く見えた。
「私だって、殿下を愛している。
でも、君もそうなんだろう?」
言葉が出なかった。
ただ、頷いた。
その瞬間、カインは笑って――泣いた。
「なら、どちらが殿下を救えるか、神に試されているんだな」
その涙は、静かで、痛いほど美しかった。
*
夜明けの鐘が鳴り響く。
その音にかき消されるように、廊下の向こうから足音が近づく。
「――二人とも、ここにいたのか」
レオニード様の声。
眠れていないのだろう。
淡い月光の中で、彼の瞳には深い疲労が宿っていた。
「殿下……」
カインがひざまずく。
けれど、レオニード様はそれを制するように手を上げた。
「もうやめよう、カイン。
君を守るために始めた“偽り”が、今は君を苦しめている」
カインの表情が崩れる。
まるで、長年支えてきた支柱が折れるように。
「……それでも私は、殿下を――」
「私も、君を大切に思っている。だが……」
そこで、レオニード様の視線が私に向いた。
その目が、まっすぐに貫く。
「――私は、エリナを選ぶ」
時間が止まった。
カインの息が詰まる。
私も何も言えなかった。
レオニード様は、一歩近づいて言葉を続けた。
「カイン。君を裏切る気はない。
だが、君を守るために作った嘘が、今は彼女を傷つけている。
私はもう、誰かのために嘘をつく王子でいたくない」
その声は、穏やかで、痛いほど真っ直ぐだった。
カインが顔を上げる。
涙が頬を伝い、彼は静かに微笑んだ。
「……殿下らしいお言葉です」
「すまない」
「謝らないでください。
貴方が笑うなら、それが私の本望です」
その言葉のあと、カインは立ち上がり、敬礼した。
それは、騎士としての最後の敬意のように見えた。
*
廊下に朝日が差し込み、白い光が三人を包む。
誰も言葉を発しなかった。
ただ、風の音と心臓の鼓動だけが聞こえる。
やがて、カインが一歩後ろへ下がった。
「殿下。これより私は、任を離れます」
「カイン……」
「どうか幸せに」
彼は微笑み、踵を返した。
朝日が鎧の代わりに黒い軍服を照らし、背中がゆっくりと遠ざかっていく。
その背を、レオニード様は呼び止めなかった。
ただ、拳を強く握りしめていた。
*
「……いいのですか?」
沈黙を破ったのは私だった。
「彼は、貴方にとって――」
「大切な人だ。だが、私は王だ」
短い言葉。
けれど、その中に、どれほどの覚悟が込められているのか、すぐにわかった。
レオニード様がゆっくりと私の前に立つ。
その瞳は、夜明けの光を映していた。
「私のこれからの婚約者は、偽りではない。
……君でいいか?」
心臓が跳ねた。
言葉が出ない。
けれど、答えはとっくに決まっていた。
「はい」
そう言うと、彼は微笑んだ。
けれど、その笑みの奥には、どこか欠けた痛みが残っていた。
――愛する人を失って得た恋は、幸福と同じくらいの罪を背負う。
それでも私は、彼の手を取った。
嘘の婚約は終わった。
これから始まるのは、真実の恋。
けれど、それはきっと、血と涙でできた物語になる。
朝日が昇る。
新しい一日が始まる。
その光の中で、私はようやく自分の心に嘘をつかないと誓った。
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