異世界召喚されて王子の「偽婚約者」にされたけど、本命に恋してしまった

妙原奇天/KITEN Myohara

第1話 契約の口づけ

 ――その日、私は異世界に召喚された。


 まぶしい光の中で目を開けた瞬間、視界いっぱいに広がるのは白い大理石の天井。天蓋付きの玉座、その前に並ぶ鎧の騎士たち。まるで映画のワンシーンのような光景だった。

 けれど、私の心臓は高鳴るよりも先に、現実を拒絶していた。


 目の前の青年――王子と呼ばれたその人が、静かに口を開く。


「異界の娘よ。君に、お願いがある」


 声は穏やかで、それでいて不思議な力を帯びていた。

 銀の髪が陽光を反射し、まるで神話の登場人物のようだった。


「……お、お願い、ですか?」

「そう。君には――私の婚約者を演じてほしい」


 婚約者?

 その言葉の意味を理解するまでに、十秒ほどかかった。


 私はただの女子高生だ。

 通学中に急な光に包まれて、気がつけばこの異世界グランツ王国にいた。

 状況説明もないまま、王族たちに囲まれて、そして唐突に「婚約者になってくれ」と言われたのだ。


「ど、どうして私なんですか? この国にも、素敵な女性がたくさん……」


 言いかけると、王子はほんのわずかに目を伏せた。

 そして、かすかに唇を結ぶ。


「事情がある。……私には、どうしても守らなければならない人がいる」


 その声音に、ほんの一瞬だけ“寂しさ”が混じった気がした。


 詳しい説明はなかった。

 けれど、私は気づいていた。

 ――この人は、誰かを守るために“嘘”をついている。


 その夜、私は王城の一室に案内された。

 侍女たちは「婚約者様」と呼び、豪華なドレスを用意してくれたけれど、鏡に映る自分の顔は現実についていけていなかった。


 枕元の蝋燭が小さく揺れる。

 あの王子の瞳を思い出す。

 淡い青の奥に、何かを隠しているような――そんな瞳。


 *


 翌朝、王城の中庭で再び王子と会った。

 朝日を背にしたその姿は、まるで絵画だった。


「これを」

 彼が差し出したのは、一本の白い薔薇。


「この花は、王家の婚約の証だ。君がこれを持つ限り、誰も君に触れられない」


「……護身用、ってことですか?」


 私の問いに、彼は小さく微笑んだ。


「そうだ。君を守るための“嘘”だ。だが、国中には“真実”として伝えられる」


 それはつまり、世間的には私が“王子の婚約者”として扱われるということ。


「ただし、条件がある」

「じ、条件……?」

「決して、私の本心を探らないこと」


 その一言に、空気がぴたりと止まった。

 王子の微笑みの奥に、鋭い刃のような緊張が潜んでいる。


 私は何も言えずに頷いた。

 そして、その瞬間。


「――契約の証として、手を」


 差し出された手に触れると、微かな熱が走った。

 指先から光が広がり、薔薇の花弁がふわりと舞う。


 彼が私の指に唇を寄せた。

 ほんの一瞬の儀礼。けれど、心臓が痛いほど跳ねた。


「これで契約は完了だ。今日から君は、“王子の婚約者”だ」


 周囲の侍女たちが一斉に頭を下げる。

 私の中では、何かが音を立てて崩れていった。

 ――これは“演技”のはずなのに。


 けれど、その瞳に映る自分を見た瞬間。

 私は気づいてしまった。


 ああ、この人を――好きになってはいけない。


 *


 夜、私は月明かりの下で庭に出た。

 そこにいたのは、王子の傍仕えの青年。黒髪に鋭い金の瞳を持つ騎士。


「……貴女が、噂の“偽婚約者”ですか」


 その言葉に、思わず息をのむ。

 どうして“偽”だと知っているのか。


 騎士は一歩近づき、低い声で囁いた。


「――殿下が誰を想っているか、知らないのですか?」


 彼の言葉に、胸の奥で何かがきしんだ。

 王子の秘密。本当の“婚約者”の名。

 それが、この人――カイン・ヴァルディスだと知るのは、もう少し先のことだった。

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