第9話

 暁さんの口から語られた真実は、私の想像を遥かに超えるものだった。

 私のお母さんが、暁さんにとっての“聖域”を創った人だったなんて。

 そして、彼が私に求めていたのは、母の幻影だったのかもしれないなんて。

 ショックだった。

 でも、それ以上に、腑に落ちた。

 彼が私に向ける、時折見せる戸惑いや、執着の理由。

 その全てが、一本の線で繋がった気がした。

「君自身のことも、その才能も、全て欲しいと思った。だが、君を幻影の代わりにしていいのか、分からなかった」

 そう言って、彼は苦しそうに顔を歪めた。

 氷の皇帝と呼ばれた男の、初めて見る弱い姿だった。

 その夜、私は暁さんに案内されて、屋敷の奥にある小さなアトリエに足を踏み入れた。

 そこは、母が使っていた場所なのだという。

 ガラスの小瓶、年代物の器具、そして、壁際には一冊の古いノートが置かれていた。

 母の、調香ノートだった。

『香りは、魂の記憶である』

 ノートの最初のページに、その一文は記されていた。

 ページをめくる。

 そこには、香りのレシピだけでなく、母の哲学が、詩のような言葉で綴られていた。

『ローズの香りを、女性的だと誰が決めたのか。

 ムスクの香りを、男性的だと誰が決めたのか。

 愚かしいことだ。

 香りに性別などない。

 ただ、そこにある魂が、どのような記憶を呼び覚ますか、それだけだ』

『調香師とは、翻訳者だ。

 言葉にならない感情、形のない思い出、声なき魂の叫び。

 それらを嗅覚という最も原始的な感覚に訴えかける“香り”という言語に翻訳する。

 だから、創り手は男でも女でもない、ただの“器”でなければならない』

『愛とは、最も複雑で、最も翻訳が難しい感情だ。

 喜びと悲しみ、執着と解放、甘さと痛みが、全て同時に存在する。

 この感情を一つの香りに閉じ込めることができたなら、

 それはきっと、神が創った最初の香りに近いものになるだろう』

 ノートを読んでいくうちに、私の涙は止まらなくなっていた。

 母さんは、ただの調香師ではなかった。

 彼女は、哲学者であり、詩人だった。

 そして、私が今まで感じてきた、言葉にできない感覚の正体を、彼女は全て理解していた。

 暁さんは、母の幻影を私に見ていたのかもしれない。

 でも、それは仕方のないことだ。

 だって、私と母さんは、同じ魂を持つ“器”なのだから。

 ノートを閉じた時、私の心は決まっていた。

 母の香りを、超えよう。

 暁さんのためだけに創るのではない。

 母さんの模倣でもない。

 小鳥遊紬という“器”が翻訳した、「愛」という感情の香り。

 彼がくれたこの場所で、彼への想いを込めて、私だけの「サンクチュアリ」を創り上げるのだ。

 それが、過去に囚われた彼と、自分を信じられなかった私を、共に解放する唯一の方法だと、確信していた。

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