第6話

【秘書・高遠 視点】

 最近、我が主、伊集院暁の様子がおかしい。

“氷の皇帝”と呼ばれ、感情というものを母親の胎内に置き忘れてきたとまで噂される、あの男が。

 きっかけは、一ヶ月前のパーティーで拾ってきた、あの少女だ。

 小鳥遊紬。

 資料によれば、天涯孤独、親戚に虐げられていた、ごく平凡な少女。

 のはずだった。

 あの日以来、社長の命令は常に彼女が中心となった。

 彼女の食事、彼女の服装、彼女の健康状態。

 その執着ぶりは、異常としか言いようがない。

 今日もそうだ。

「高遠、紬の部屋の湿度が昨日より2%低い。すぐに調整しろ」

「高遠、紬が散歩中に足を挫いたらしい。世界中から最高の名医を呼べ」

「高遠、紬が少しでも笑ったら、その瞬間の映像と音声を記録し、俺に送れ」

 …最後の命令に至っては、本気なのか冗談なのか判断に苦しむ。

 業界内でも、噂は光の速さで広まっていた。

「伊集院暁に、寵愛する少女が現れた」。

 ライバル社の連中は、彼女を社長の弱点とみなし、スキャンダルを狙って嗅ぎ回っている。

 先日も、週刊誌の記者が屋敷の周りをうろついていたのを、警備が追い払ったばかりだ。

 だが、彼らは何も分かっていない。

 小鳥遊紬は、社長の弱点などではない。

 むしろ、逆だ。

 先日、社長は私を呼び出すと、一枚の企画書を突きつけてきた。

「“サンクチュアリ”。これが、我が社の次期フラッグシップとなる新作香水の名前だ」

 企画書に目を通し、私は絶句した。

 コンセプトは「魂の安らぎ」。

 そして、チーフ・パフューマー(最高責任調香師)の欄には、こう記されていた。

 ――小鳥遊 紬。

「社長、本気ですか。彼女はズブの素人です。社内のベテランたちが黙っていません」

「黙らせろ。それがお前の仕事だ」

 彼の黒曜石の瞳は、揺るぎない自信に満ちていた。

「彼女は、天才だ。いや、天才という言葉すら陳腐に聞こえる。彼女は、香りの女神に愛された存在だ」

 そう語る社長の横顔は、私が今まで見たことのない、柔らかな光を帯びていた。

 それは、信仰にも似た、絶対的な信頼の光だった。

 どうやら、伊集院暁という男は、人生最大の賭けに出たらしい。

 そして、その賭けの対象は、会社でも、金でもなく、たった一人の少女。

 面白い。

 この嵐のような恋が、IJUINを、そしてこの業界をどこへ導くのか。

 秘書として、そして一人の人間として、この物語の行く末を最後まで見届けてみたくなった。

 私は、静かに頭を下げた。

「承知いたしました。全ての障害は、私が排除いたします」

 氷の皇帝の寵愛が、吉と出るか、凶と出るか。

 どちらに転んでも、退屈だけはしなくて済みそうだ。

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