虐げられていた私、冷徹な“氷の皇帝”に『君の香りは俺の聖域だ』と見初められ、世界一甘い独占欲の檻に囚われました
クソプライベート
第1話
教会の重厚な扉が開く。
純白のドレスの裾が、大理石の床に擦れる音がやけに大きく響いた。
一歩、また一歩とバージンロードを進む私の隣で、伊集院暁(いじゅういんあきら)は完璧な微笑みを浮かべている。
半年前、私の卑屈な日常を壊し、傲慢な手でその腕の中に閉じ込めた男。
世界が“氷の皇帝”と畏れるこの男の胸に、私は隠し持ったガラスの小瓶を突き立てる機会を、ただ静かに窺っていた。
これは、天涯孤独の私が、冷酷非情な彼と出会い、その全てを奪われるか、あるいは、彼の凍てついた心を溶かすまでの、三百六十五日の物語だ。
◇
じとり、と肌に纏わりつく安物のポリエステルの感触が気持ち悪い。
厨房の熱気と、ホールから漏れ聞こえてくる不協和音のような嬌声、そして鼻腔を刺す甘ったるい香水の匂い。
その全てが、私の思考を鈍らせていく。
パーティー会場の裏方。
それが、叔母が私に与えた今日の仕事だった。
孤児である私を引き取った見返りだと、叔母はいつもそう言った。
「紬! あんた、まだそんなところで突っ立ってるの! さっさと汚れたグラスを運びなさい!」
叔母の金切り声が、私の鼓膜を震わせた。
びくりと肩を揺らし、慌ててグラスが山積みになったトレーを持ち上げる。
重い。
指先が微かに震え、視界がぐにゃりと歪んだ。
貧血だろうか。昨日の夜から、パンの耳しか口にしていないことを思い出す。
その瞬間だった。
私の手から、銀色のトレーが傾いだ。
ガシャン!
甲高い音がフロアに響き渡り、純白のクロスの上にシャンパンゴールドの染みが広がっていく。
やってしまった。
血の気が、すうっと引いていくのが分かった。
「なんてことをしてくれたの、この役立ず!」
飛んできた叔母の平手が、私の頬を灼いた。
じんじんと痺れるような熱。
周囲のスタッフたちの冷ややかな視線が、無数の針のように私に突き刺さる。
すみません、ごめんなさい。
声にならない謝罪が、喉の奥でか細く震えた。
蹲ってガラスの破片を拾おうとした私の腕を、叔母が乱暴に掴む。
「あんたみたいな薄汚い子がここにいるだけで、この場の空気が穢れるわ! さっさと出ていきなさい!」
その時だった。
場の全ての音が、ぴたりと止んだ。
まるで、王の登場に怯える臣下のように。そこにいた誰もが、息を飲む気配がした。
叔母の動きも、凍りついている。
ゆっくりと顔を上げると、そこに一人の男が立っていた。
黒曜石のような瞳。
寸分の隙もなく仕立てられた漆黒のタキシード。
その場にいるだけで、周囲の温度を数度下げてしまうような、絶対的な冷気と支配者のオーラ。
日本最大の化粧品メーカー「IJUIN」を率いる若きCEO、伊集院暁。
パーティーの主催者である彼が、なぜこんな場所に。
彼の冷たい視線が、叔母に向けられた。
「今、この女性に何をした?」
チェロの最低音のように低く、静かな声。
だが、その声に含まれた絶対零度の怒りに、叔母の顔が恐怖に引き攣った。
「あ、いえ、これは、この子が粗相をいたしましたので、教育を…」
「教育だと? 私のパーティーで、私の客(・)に、貴様ごときが手を上げるとは、随分と身の程知らずらしい」
客? 私が?
叔母が私を睨む。違う、私はただの手伝いで。
そう言おうとしたが、声が出ない。
暁は、私の前に跪くと、その黒曜石の瞳で私を射抜いた。
その瞬間、彼の眉が微かに動いた。
驚いたように、彼の瞳が私に注がれる。何かを探るように。
彼は私の頬に残る赤い痕を、雪のように冷たい指先でそっと撫でた。
びくりと体が震える。彼の指が触れた場所だけが、燃えるように熱い。
「痛むか?」
こくこくと、か細く頷くのが精一杯だった。
彼は立ち上がると、凍りついたままの叔母に宣告した。
「貴様の会社との取引は、本日付けで全て打ち切る。未来永劫、IJUINの敷居を跨ぐことは許さん」
「そ、そんな…!」
「そして」
暁は私に向き直ると、まるで埃を払うかのように軽々と、私をその腕に抱き上げた。
所謂お姫様抱っこというものだろうか。
突然の浮遊感に、私は彼の首に必死にしがみつくことしかできない。
彼のシャツから、清潔なリネンの香りと、彼自身の、どこか森の奥の湖を思わせるような澄んだ匂いがして、くらりとした。
唖然とするスタッフたちと、絶望に顔を歪める叔母を残し、暁は私を腕に抱いたまま、厨房を後にした。
ホールの喧騒の中を、彼は誰に構うでもなく進んでいく。
すれ違う人々が、驚きと羨望の目で私たちを見るのが分かった。
恥ずかしくて、彼の胸に顔を埋める。
「もう大丈夫だ」
耳元で囁かれた声に、顔を上げる。
彼の黒曜石の瞳が、すぐそこにあった。
その瞳の奥に、先ほどまでとは違う、熱を帯びた何かが揺らめいているように見えた。
「君を、ずっと探していた」
わけがわからない。
私は今日、初めてこの人に会ったはずだ。
これは何かの間違いだ。人違いに決まっている。
そう思うのに、彼の腕はあまりにも力強く、その声はあまりにも甘く、私の心を縛り付けて離さなかった。
これは、夢なのだろうか。
それとも、これから始まる悪夢の序章なのだろうか。
彼の胸の中で、私はただ、なすすべもなく運ばれていくしかなかった。
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