「異世界転生したらギルドで笑われたけど、負けヒロインにはならない!」

グレオネ

序章 崩壊のロビー

「おい愛梨沙、その髪飾り……また変えたの?」


 ゲーム内のロビーは、夕焼けを模した橙の空が高く広がり、白い床は鏡みたいに滑らかで、人影や光の粒が柔らかく反射していた。噴水の水は重力を忘れたみたいに糸になって上へ流れ、薄い音楽が空気の底から湧いてくる。

 左肩のみえる短めのフリルシャツに身を包んだ神咲舞愛梨沙は、星型のアクセサリーを左のサイドテールに光らせていた。赤い髪は夕焼けに似た色合いで、喋る前から「元気」を先に言ってしまうタイプ。少し幼顔だが、大きな瞳と愛嬌のある笑顔が目立ち、同級生の男子からも“可愛いけど変人”と呼ばれている。


「へへっ、似合うでしょ? 今日のために特別につけてきたんだから!」


 胸を張って一回転。星のアクセは光源に反応して、きらりと瞬いた。ロビーの視線が一瞬だけ集まり、すぐに波紋みたいに散ってゆく。


「はいはい、主役気取り。……でもまぁ、似合ってる」


 静かに笑ったのは山賀鈴芙美。腰まで流れる空色の髪を指で整え、澄んだ青い瞳を細める。清楚でお淑やかな立ち居振る舞いは、同じ制服でも彼女だけ舞台の上に立っているような雰囲気をまとわせる。小さく息を整える癖は、普段の彼女の几帳面さそのものだ。


「ちょっと! 二人とも遊んでる場合じゃないでしょ!」


 割り込む声。紫のツインテールを揺らした小柄な少女――波風ノエルが腕を組んで立っていた。猫の飾りを普段は頭につけているが、今日は外している。幼顔に似合わずきつめの瞳で二人を睨み、誰よりも現実的にツッコミを入れるのがノエルの役割だ。身長は低いのに存在感は強く、足を軽く開いて重心を落とす癖は、彼女の警戒心の高さをよく示している。


「もうすぐイベント開始なんだから! 余計なトラブル起こさないでよね」


「トラブルなんて、私が起こすわけないでしょー?」


 愛梨沙は笑い、空中UIを指でスワイプした。ロビーの情報板には、今日の大型イベントの開始カウントダウンが大きく表示されている。

 ――00:04:12。

 数字は粛々と減り、周囲では装備を磨く音、パーティ募集のチャット、記念撮影のカメラエフェクトが交錯していた。


(大丈夫。大丈夫。今日はうまくいく。新しい髪飾りも、きっと“いい流れ”を連れてくる)


 心のなかで小さくガッツポーズを決める。こういう験担ぎを笑う人もいるけれど、愛梨沙には大事なスイッチだった。


「しかし愛梨沙、その星のアクセ……三つ目だよね? 前の二つはどこへ行ったの?」


「ひとつ目は体育のときに吹っ飛んで、二つ目は風呂の排水口の大海原へ旅立った!」


「語彙の方向、なんとかして」


 ノエルが額に手を当てる。鈴芙美はふっと笑い、視線をロビーの端へ向けた。

 そこでは、見知らぬパーティが作戦会議をしている。盾役の青年が両手を広げ、攻撃の波を示す手振りを繰り返し、後衛の少女はメモを取って頷く。

 この場所に満ちた期待感と、少しの緊張。仮想世界特有の、音も匂いも調整された「安全な熱気」。


「……いいね。こういう雰囲気、好き」


 鈴芙美の横顔は、現実の教室で見せるそれよりほんの少しだけ、自由だ。

 愛梨沙はそんな友達二人を見て、胸がじんわり温かくなる。


「うん。私たち、絶対いける。今日は――」


 その瞬間だった。


 視界の端に、黒いノイズが走る。最初は髪の毛一本みたいな細さで、光の粒の間を縫うように波打った。


「……え?」


 ノエルが眉をひそめる。「ちょっと、今の見た? 画面……」

 鈴芙美も首をかしげた。「光の粒子が……流れ方、おかしい。時計の針だけ別の方向へ回ってるみたい」


 音楽が、半拍だけ遅れた。

 噴水の水糸が、重力を思い出したみたいに、ぷつ、と切れる。床の反射が浅くなり、影の輪郭がわずかにぼやけた。


(エフェクトの当たり判定? 負荷? でも公式ロビーでそんな……)


 愛梨沙は首をかしげ、UIを呼び出そうとして指を振る――が、メニューが開かない。代わりに、爪の先を小さく焦がすみたいな、ちりちりした違和感だけが指先に残った。


「メニュー、出ない……?」


「ログ、落ちてない。チャットも流れてる。――でも、遅延してる」


 ノエルの声が低くなる。彼女はこういうとき冗談を言わない。

 ロビーの空気は、誰も気づいていないふりをしながらも、確実に変わっていた。遠くで誰かが「おい、ラグいぞ」と笑い、別の誰かが「仕様だよ仕様」と肩をすくめる。笑いは軽いが、笑いの終わりが早い。


 床の白が、砂目のザラつきを帯びはじめた。サーフェスのテクスチャが、圧縮された画像みたいに小さくブロックノイズを起こす。愛梨沙の足元で、ピキ、と氷のひびみたいな細線が走った。


「……バグ?」


 バグ――そう言おうとした愛梨沙の口から、声が漏れない。

 喉を使った感覚はあるのに、音にならない。空気が粘って舌に貼りつくような、異常な沈黙。


(え……待って。やだ、やだやだ、“ホラー演出”は聞いてない)


 世界がぐにゃりと歪んだ。

 床だったはずのデータが砂のように崩れ、噴水の水糸は逆再生のように解けて散る。遠景の塔が折り紙みたいに折れ、薄い紙片になって風に舞った。

 ロビーの中心に、穴が開く。無色透明のくせに、見ていると目が痛くなる「色」。そこへ光が吸い込まれてゆく。


「えっ……えええ!? これ、ゲームじゃないの!?」


 愛梨沙の赤い髪が宙に舞う。身体は、崩れた空間の穴へ落ちるのではなく、吸い込まれていく。落下の浮遊感と、真空にストローで吸われるみたいな引力が同時に襲う。

 足首から、ふくらはぎ、膝。境目を冷たい指でなぞられるみたいに、現実感が剥がれていった。


「愛梨沙っ!」


 鈴芙美が手を伸ばす。白く細い指先が確かに触れた――はずなのに、手のひらがすり抜ける。指先が冷たく痺れて、感覚だけが残る。


(届いた。触ったのに。なんで? なんで掴めないの?)


 鈴芙美の青い髪がふわりとほどけ、光の奔流に滲んだ。彼女の視界には、UIの端が一瞬だけ**“ERROR 0x71”**と赤く点滅する。(エラーコード? 何それ……記録しなきゃ。記録――)


「……嘘でしょ、こんなの!」


 ノエルは必死に足を踏ん張る。小柄な体を覆う制服の裾が風に煽られ、紫のツインテールが乱れる。膝を曲げ、腰を落とし、体の芯で重力を掴む――現実世界で鍛えたバランス感覚が、ここでも役に立つと思っていた。

 だが、抵抗は意味をなさない。足元の床そのものが滑走路の終端みたいに途切れ、ノエルは別方向の光に引き裂かれるように消えた。

 最後に、彼女は歯を噛み、言葉にならない言葉を吐いた。(ふざけるな。二人を――離すな)


 残ったのは、崩壊音とノイズだけ。

 ロビーのBGMは無慈悲に再生を続けるが、どこか遠くで、針が落ちるみたいなアナログな音が何度も混ざる。

 三人の少女は、互いの声を最後まで聞き届けることもできず、バラバラに異世界へと散り散りになった。


 ――落ちる。

 愛梨沙の耳は、自分の鼓動を巨大な太鼓みたいに聞いていた。ドン、ドン。音が遠のき、代わりに風が近づく。

 赤い髪が、空気に引っ張られて涙の塩気を舐めた。喉がからからに乾いているのに、声は出ない。出せない。

 目の前に広がるのは、色のない流れ。白でも黒でもない、言葉の外側にある無数の薄膜が重なり、遥か下にちらちらと緑が覗く。


(ねぇ。――二人、どこ? 鈴芙美、ノエル。返事して。……して、よ)


 返事はない。代わりに、耳鳴りのような電子音が、断続的に響く。ピ――――。

 その音に重なるように、誰かの笑い声の残像、チャットのスタンプ、ギルド招待の通知――いまさっきまで当たり前だった日常の断片が、水面に沈む光のように、ゆっくりと遠ざかっていく。


(私、泣きたくない。泣いたら、星が濁る。……いや、何言ってんの私)


 愛梨沙は自分に突っ込み、苦笑し、そして――ぎゅっと目を閉じた。

 次に開けたとき、そこが“世界の底”でありませんように。

 誰かの手が、また触れてくれますように。

 その子どもじみた祈りは、音にもならず、色のない流れに混じって消えた。


 視界が、緑で満たされる。

 風が変わる。ほんものの土の匂い、葉の青い匂い、乾いた木肌の匂い。

 重力が「戻って」きた。

 ――そして、落下は終わった。


 地面。草。土。痛み。

 肺が勝手に空気を吸い、喉が咳を弾いた。ごほ、ごほっ――!

 耳鳴りは消え、代わりに虫の羽音、遠い水音、見知らぬ鳥の声が、音の層を何枚も重ねてくる。


(どこ……?)


 唇が震えた。声は、今度は出た。

 頬に触れる指先は泥でざらつき、星の髪飾りは、右のサイドテールでちゃんと光っていた。

 ――ここはゲームじゃない。匂いと風と、皮膚の温度が現実だと、体が先に理解している。


(鈴芙美。ノエル。……大丈夫。大丈夫、だから)


 口に出すと、ほんの少しだけ、本当に大丈夫な気がした。

 彼女はゆっくりと体を起こし、胸に手を当て、深く息を吸い込む。肺の奥がひりひりと痛む。

 見上げた空は高く、葉の隙間から、ひと筋の光が落ちてくる。星のアクセが、かすかにそれを受けてきらりと瞬いた。


 遠く――どれくらい遠くか、見当もつかない距離の別の場所で、青い髪の少女も、紫のツインテールの少女も、それぞれ違う景色の中で目を覚ましていた。

 叫べば届く距離ではない。

 けれど、三人の胸の奥では、同じ鼓動が、同じテンポで鳴っていた。


(見つける。絶対に)


 愛梨沙は立ち上がる。膝に土。スカートの裾に草の汁。現実は容赦ない――それでも、彼女は笑った。

 星は、まだ濁っていない。


 こうして、三人の物語は別々に始まり、やがて――交わるために進みだした。


指先に残る泥の冷たさを見つめていたら、ふいに現実の記憶が閃いた。

 朝、台所で「朝ごはん食べなさいよ」と笑っていたお母さんの声。弥勒高校の昇降口で、友達が「愛梨沙また髪飾り変えたの?」と笑った顔。ほんの数時間前まで確かにあった日常が、まるで夢みたいに遠い。


 胸が締めつけられ、喉の奥が熱くなる。だけど、涙は出なかった。泣いてしまったら帰れなくなる気がしたから。

 代わりに、両手で頬をぱんっと叩く。


「よし! 生きてる! だったら歩ける!」


 声は震えていたけど、確かに空気を揺らした。

 木々の葉が風にざわめき、まるで返事みたいに光の斑点を地面に散らす。


 愛梨沙はスカートの裾を払って立ち上がる。

 ここから、彼女の“異世界生活”が本当に始まるのだ。


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