3-3

 回廊を歩いていると、掃除中の宦官たちの話し声が聞こえてきた。


「この国の本当の後継者は、青龍になれるそうだぞ」

「それって、子供向けのお伽話なんじゃないのか?」

「けれど、それがまったくの作り話というわけでもないらしい。二百年に一度、本当に龍になる後継者が現れると聞いたぞ」

「へえ」


 青龍の血を引く王族の体には、必ず紋様が現れると聞いている。しかし、青龍そのものの姿に変身できるというのは、到底信じられない話だ。


 凌雪りょうせつは口元にかすかな微笑みを浮かべると、静かに書房へ戻っていった。


 夜の東宮は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。薄い雲が月を隠し、灯籠の明かりだけが回廊を淡く照らしている。


「凌雪、来い」


 書房を出る間際、景耀けいようは振り返らずにそういった。その背に、ためらいのない強さがあった。心臓が、ひとつ大きく跳ねる。


 この時間に殿下自ら歩かれるなどめったにない。それも、中庶子である自分一人を伴って――。


「……どちらへ、参られるのですか」

「来ればわかる」


 背を向けたままの低い声が、夜気に溶けた。白い衣の裾が灯火をかすめ、揺れるたびに景耀の影が長く回廊に伸びていく。


 凌雪はその後ろ姿を見失わぬよう、少し早足でついていった。景耀の歩く姿は優雅で、一歩一歩が計算されているかのようだ。


 夜の回廊を迷いなく進んだ景耀は、やがて政務棟の奥――蔵書閣ぞうしょかく翰林院かんりんいん」の前で足を止めた。


 重厚な扉の前に立つと、腰の鍵束を取り出し、ひとつの錠を静かに開ける。金属の擦れる音が夜の静寂に響く。


 扉が軋む音とともに、冷たい空気がこちらに流れ込んできた。書物特有の古い紙と墨の匂いが鼻をつく。


「……ここは?」

「書庫だ。王家の記録、政の密書……代々、この国を支えてきたすべてがここにある」


 景耀は振り返りもせず、奥へと歩を進める。その足音が石の床に反響する。


 凌雪は一歩、また一歩と続いた。内部は薄暗く、壁際に灯された灯火がまばらに棚を照らしている。


 整然と並ぶ巻物や冊子からは、墨と紙と時間の匂いが漂っていた。天井は高く、どこまでも続く書架が圧倒的な存在感を放っていた。


 ――このような場所に、宦官である自分が足を踏み入れていいはずがない。


 凌雪は思わず足を止めた。ここは王家の秘密が詰まった場所だ。宦官風情が入ることは許されないはずだ。


「……殿下、私は――」

「黙ってついてこい」


 短いその言葉に、不思議な力があった。凌雪は息を呑み、再び歩き出す。


 書庫の奥で、景耀は一冊の古文書を取り上げた。厚い表紙には青龍を象った文様が刻まれている。金箔が施され、月光を受けて鈍く光っている。


 机に広げると、ぱらりと頁がめくれ、蝋燭の炎に古びた文字が浮かび上がった。文字は古い書体で書かれており、読むのに時間がかかりそうだ。


「……青龍の記録……?」

「そうだ。王家は龍の血を引いているとされている。二百年に一度、『青龍の子』が現れ、その存在が国の繁栄や衰退にかかわるといわれている。これまでは単なる伝承に過ぎないと思っていたが……」


 景耀はそこで言葉を切り、何気ない仕草で自分の臍の下あたりを指でなぞった。


「……私にも、その印がある。『青龍の子』かどうかはわからんがな」


 その言葉を聞いて、凌雪の胸の奥で何かが震えた。


 景耀のその仕草は淡々としていたのに、凌雪の頬はひどく熱を帯びる。その場所を、想像してしまったからだ。白い肌に浮かび上がる青い龍の文様――。


 慌てて視線を逸らした凌雪を、景耀はじっと見つめていた。蒼みを帯びた瞳が、暗がりの中で静かに光る。まるで、心の奥を見透かされているようだった。


「……宦官が顔を赤くするとは珍しいな」

「っ……! そ、そんなつもりでは……!」


 否定しようとした声が裏返り、凌雪は自分でも情けなくなる。景耀は小さく喉の奥で笑った。めったに見せない、柔らかな笑みだった。


 その笑みを見て、凌雪の心臓がさらに跳ね上がる。こんな風に笑う景耀を見るのは初めてだった。


 その瞬間――外の扉が、重く閉ざされる音が響いた。


「……閉まった?」

「どうやら衛兵が巡回の折に……くそ、こんな時間に閉めおるとは」


 景耀は眉をひそめたが、特に慌てる様子もなく、机の縁に腰を下ろした。その動作は優雅で、まるですべてを予想していたかのようだ。


 凌雪は扉の前まで駆け寄り、押してみたが、びくともしない。重厚な扉は外から鍵をかけられたようだ。


「今しばらく、ここで待つしかありません」

「……そのようだな」


 書庫の中は、扉が閉じると一気に灯火が際立った。二人の影が棚や天井に揺らぎ、静寂の中で互いの息遣いがやけに大きく響く。


 凌雪は景耀の傍に戻った。狭い書庫の中、二人きり。この状況に、胸が高鳴る。


 景耀はしばらく沈黙していたが、やがて低い声を響かせた。


「……この宮廷で、誰を信じるべきか、私にはもう分からん。臣下も、貴族も、皆、玉座しか見ていない。だが……」


 蒼い瞳が凌雪をとらえる。その視線に、凌雪は思わず息を詰めた。


「お前は……違うな」

「……殿下」

「私は、お前を信じる。だから――この場所を見せた」


 胸が、強く締め付けられた。それは主従の信頼ではなく、もっと深くて甘い、名のつけようのない感情だった。


 言葉にならない思いが喉まで込み上げ、凌雪は拱手し、深く頭を垂れる。


「……この命、殿下のためにあります。わたくしは……必ず、殿下をお守りいたします」


 景耀の気配が近づいてくる。凌雪の心拍が跳ねた。灯火の熱が頬を撫でる。


「……そういう顔をするな、凌雪」


 低い声が、耳元で囁かれた。その響きは、背筋を熱く焼いた。


 景耀の手が凌雪の顎に触れ、顔を上げさせる。その指は温かく、優しい。


「私の理性が、揺らぐ」


 その言葉とともに、景耀の唇がわずかに凌雪の額に触れた。一瞬の口づけだったが、その熱が額に残る。


 凌雪は目を見開いた。心臓が破裂しそうなほど跳ね上がった。

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