魔王、転生し少年となる。
こてつ
第1話
かつて、闇に君臨する絶対者がいた。
その名は魔王グラディウス・ノクターナ。
漆黒の王冠を戴き、翼を広げ、七つの大罪をその身に宿した存在。
彼は魔界を統べる王として、無数の魔族たちを従え、混沌の玉座に座していた。
人間界にとって、彼の名は伝説ではない。悪夢であり、現実だった。
グラディウスは幾度となく次元の壁を越え、突如として人の領域へ姿を現した。城を焼き、街を呑み、英雄たちの剣すら通じぬまま、ただ存在するだけで世界を震え上がらせたという。
古の記録にはこう記されている。
『その歩みは災厄を連れ、その声は魂を蝕む。魔王は理を超えた存在であり、彼を止めうるものは、この世には存在しない』
そして人々は祈るように噂した。彼が再び現れる日、この世の終わりが始まる、と。
彼は無数の戦乱を生き延び、否、制圧してきた。
その戦いの全てにおいて、彼は敗北という言葉を知らず、流れる血も、崩れ落ちる城も、ただ彼の栄光を彩る装飾に過ぎなかった。
彼が一睨みするだけで竜はひれ伏し、大地は呻いたという。炎を喰らい、雷を従え、神々すらその存在を無視できなかった。
だが、その絶対的な支配は、やがて恐怖を生み、そして憎悪を育てた。灰燼と化した国々の民は、祈ることをやめ、剣を取った。
忌まわしき敵を打ち倒すため、人類はかつてない規模の連合を結成する。種族、国境、信仰すら越えて、ただ一つの目的のために魔王を討つ。
世界の半分を手中に収めたはずのその玉座は、ついに陥落する。
長きにわたり築き上げた栄華は、血と怒りに飲まれ、奈落へと堕ちた。
「……ふふ。これもまた、運命か」
千の矢が放たれ、聖剣がその胸を貫いた瞬間――魔王グラディウス・ノクターナは、静かに目を閉じた。
そして、誰もが想像もしなかった表情を浮かべる。
それは、穏やかな微笑みだった。
怒りも、恐怖も、悔しささえもそこにはなかった。まるで最期の瞬間を、ずっと待っていたかのように。
彼の唇が、わずかに動く。
「《輪廻転生》」
魂を未来へ託す、古の魔法。
その声に込められたのは破壊でも、復讐でもない。
憎悪に満ちた呪詛ではなく、ただ、安らぎだった。
彼が最後に紡いだ魔術は、誰も知らぬ古の言語によるもの。
だがそれは明らかに、世界を滅ぼすものではなかった。
逆に、それは空に光を生み、静かに風を癒し、焦土に芽吹きを与えるような、祈りにも似た魔法だった。
「次は……ただの“人間”として、生きてみるのも悪くはないな」
そして、すべてが終わった。
肉体は塵へと還り、魔王グラディウス・ノクターナという存在は、この世界から消え去った。
だがその魂は、静かに光の粒子となって現れた。
それは炎でもなく、闇でもない。温かな黄金の光を帯びた、小さな星々のようだった。
粒子はゆっくりと宙を舞い、風に逆らうように漂い続ける。まるで迷っているように、何かを探しているように。
それは誰にも見えず、誰にも触れられない。だが確かにそこに意思があった。
一つ、また一つと軌道を変えながら、その粒子はやがて中空の一点にふわりと留まった。そして何かを見つけたかのように、静かにその輝きを手放す。
まるで祈るように、まるで何かを託すように。
光は一瞬、柔らかに瞬き、そして蒸発するように消え去った。音もなく、熱もなく、ただそこに微かな余韻だけを残していた。
それを誰も気づくことはなかった。けれど、その瞬間から、運命の歯車は音を立てて回り始めていた。
(苦しい。胸が焼けるように苦しい)
ゆっくりと目が開く感覚がある。
(眠っていたのか?)
目を覚ましたとき、世界はまるで違って見えた。
(ここは……どこだ?)
全身が、重い。
まるで鉛を流し込まれたかのように、四肢が言うことをきかない。
息は浅く、胸は軋み、視界の端は暗く滲んでいた。指を一本動かすだけで、世界がひどく遠く感じられる。
だが、それよりも異様だったのは、自分の中に、誰か、がいる感覚。
意識の奥深く、まるで水底に沈む記憶の残響が、真綿に染み込むように流れ込んでくる。
かつて見たこともない戦場。聞いたことのない言語。
血のにおい、咆哮、光の刃、そして世界の果てのような孤独。
「これは俺じゃない……誰の記憶だ……?」
彼の名はリオネル・グレイ。霧深き山々に囲まれた辺境の村に住む、十二歳の少年。
薪を割り、母の手伝いをしながら生きてきた、ごく平凡な少年のはずだった。
けれど今、彼の中に渦巻いているこの記憶、この力、この恐怖。それは、彼のものではない。いや人間のものですらない。
名も知らぬ大昔、世界を恐怖に染め上げた伝説の存在。滅びたはずのその魂は、今、リオネルという新たな器に宿っていた。
魔王グラディウス・ノクターナ。世界を震わせた漆黒の王の魂が、今、静かに目を覚まし始めている。
喉がひりつく。思うように声が出ない。混乱する意識の中、リオネルの記憶と、魔王グラディウスの記憶が交錯する。自分は誰なのか。どこから来たのか。なぜ、今、子供の姿なのか。その答えはまだ、霧の中だった。
記憶の繋がりが頭の中を駆け巡っていく。何かを混ぜるような感覚が吐き気を伴っていく。もう一度目を瞑り、それに身を委ねていく。少しずつ、その何かの動きが静かになっていくようだった。
(声が出しずらい。体が小さいな)
ゆっくりとまた目を開けた。小さな部屋のようだ。そしてベッドに横たわっている。ゆっくりと手を動かす。その瞬間、電気が走るようであった。
(……ふん。小さな貧弱な手だ)
自分が弱き人間に転生したことがわかった。
(魂がこの者に新たに宿った。という所か)
「リオ! 起きてるの!? 朝ごはん冷めちゃうわよ!」
明るい声とともに、部屋の扉が開いた。
そこには優しげな笑みを浮かべる女性。リオネルの母親が立っていた。
魔王として無数の命を奪ってきた彼には、あまりに温かすぎる光景だった。
(……なるほど。これが、人間の“家族”というものか)
グラディウスの魂は、その瞬間、確かに、小さな衝撃を受けていた。
それは刃が突き立つような痛みではなく、長い冬のあとに差し込む陽だまりのような、得体の知れぬ温もりだった。
意識の奥に横たわる無数の記憶。砕けた王座、崩れ落ちる城壁、焼き尽くされた街、裏切り、絶望、憎悪、そのどれにも、ぬくもりというものは存在しなかった。
欲しいと願ったことは、一度もなかった。
欲しいと知ることすら、許されなかった。
だが今、このリオネルという名の少年の中に宿った時、周囲の世界が、どこか異なって感じられた。
家族の声。薪の香り。あたたかい声。そのすべてが、かつての自分にはなかったもの。
手に入れられなかったもの。
それが、今ここにある。
(……これは……何だ?)
理解ができない。納得もできない。
だが確かに、グラディウスの魂は揺れていた。
誰にも知られぬ深層で、ほんの微かに。けれど確かに、何かが崩れ始めていた。
それは、かつて世界を焼いた魔王が、初めて喪ったものに触れた瞬間だった。
「母さん、今行く」
まだ、自分のものとは思えない声で、そう応えた。
音の高さも、言葉の響きも、喉を通る感触すらどこかぎこちない。
それでも、その言葉には確かに意志が宿っていた。
それはかつて、命ずるだけで世界が従った声ではない。威圧も、威厳もない。ただ一人の少年が、自分自身の意思で選んだ声。
「これが、始まりだ」
ここから始まるのは、征服でもない。世界を震わせる戦争でも、血と炎の復讐でもない。
これは『新しい生』。
過去でもなく、未来でもない。誰かに定められた運命でも、恐れられる名でもない。
リオネル・グレイという、名もなき少年としての歩み。魔王の記憶を抱えたまま、それでも人として、生きるという選択。リオネルとしての第二の人生が、静かに、けれど確かに動き始めた。
リオネルが目を覚ました村、リヴィエラ村は、王都から遠く離れた辺境の地だった。魔物の脅威は少なく、住人たちは穏やかに日々を暮らしている。木々が豊かで野畑が広がる村。まるで絵本の中のような世界だ。
「母さん。おはよう」
少しかすれた声で言葉を発した。
「さ、早く食べて。パンを作るわよ」
リオネルの母、セリア・グレイはこの村でパン屋を営んでいた。
「ほら、リオ。こねるときはこう。指に力を込めて、ぐっとね」
「こねる……とは、こんなふうにか?」
まだ体に違和感を覚えながらも、リオネル――いや、魔王グラディウスは忠実に動作を真似た。
かつて魔術で大地を割り、天を裂いていた彼が、今はパン生地をこねているのだ。
(なるほど。人間の生活とは、かくも不思議なものだな)
「上手よ、リオ」
セリアは笑う。
温かい声。柔らかい笑顔。かつての魔王には縁のなかったものだ。
「……ふむ、悪くない」
素直に言葉が漏れる。
「え?」
「いや、パンだ。パンの話だ。……悪くない」
「変な子ね」
母親はくすっと笑った。
その日の午後。リオネルは森へと向かった。薪を拾いに行くためだ。
(それにしても、この身体……。魔力の流れが細い。いや、未熟か)
少しだけ、念じてみた。魔力の流れを感じる術など、思い出すまでもない。本来ならば、そうだったはずだ。
意識を内へと向ける。すると、胸の奥、肉体の中心に宿る核が、微かに震えた。
(ある。確かに、魔力はある。が……)
けれどそれは、かつての自分が知る“力”とは、あまりにも違っていた。
微細な魔力の流れ。かすかな鼓動。指先に集めようとすれば、すぐに逃げていく。どれだけ集中しても、火花一つすら立ち上がらない。
(これが今の器か……)
思わず、内心でそう呟いていた。グラディウスとして君臨していた頃、魔力とは呼吸であり、鼓動であり、存在そのものだった。願えば地が裂け、怒れば空が震えた。
今はただ、かすかに灯るだけ。吹けば消える、小さな命の火。
(それでも、確かにここにある)
弱くとも、幼くとも、この核は生きている。
そして、これこそが今のリオネルという存在の始まり。
過去の栄光ではなく、今ここにある小さな力から、すべては始まるのだ。
(ふむ、やはり魔力は存在する。……が、扱えるのはまだ先か)
魔王としての能力は、今や封印されたも同然だった。だが、彼の中には千年分の知識が残っていた。
――その時。
森の奥から、うなり声が響いた。
「……ほう?」
木々の間から現れたのは、牙をむいたウルフ型の魔獣だった。ゆっくりとした歩みでこちらに近づきこちらに目を向けてくる。感じる魔力は弱いものであった。
普通の12歳では即座に逃げ出すところだが、リオネルは目を細める。
「低級の魔獣か」
足元に転がる一本の木の枝。リオネルは無駄な動作なく、それを素早く拾い上げた。
指先に感じるのは、ただの乾いた木の感触。けれど彼は目を細め、軽く息を整えながら、意識を内へと沈めていく。意志を込める。
枝の輪郭が、わずかに揺らいだ。空気が一瞬だけ張り詰め、次の瞬間――
キン、と澄んだ音が耳の奥で鳴る。
木の枝は、彼の手の中で徐々に形を変えていく。木肌が引き締まり、芯が硬質化し、先端が鋭く尖る。やがてそれは、狩りにも戦いにも使える槍の形を成した。
無骨だが、確かに戦える武器。ただの枝だったはずのものが、今や意志を帯びた刃へと生まれ変わっていた。
リオネルは無言でそれを構え、軽く一度振ってみる。重さも反応も悪くない。
(よし。人間の身体でも、これくらいはできるな)
かつては、大地のマナを一息で集束させ、雷の槍を空から降らせることもできた。今のこれは、その足元にも及ばない。
だが、それでもゼロではない。
この指で掴み、この手で生み出し、この心で形にする。それは確かに、彼自身の力だった。
失ったと思っていたものの一端が、静かに蘇る。まだ幼い器の中に眠る、かつて世界を震わせた記憶と魔力の残響。それを使える知った今、世界がほんの少しだけ違って見えた。
木槍を構え、低く踏み込む。
魔獣が吠える。スッと、右足を踏み込むと同時に内なる魔力を槍に込め素早く前に突き出した。次の瞬間にはその吠え声は止んでいた。槍は魔中の口から真っすぐに突き刺さっていた。
「悪いな。実験台になってもらった」
淡々とつぶやき、リオネルは何事もなかったかのように魔獣の毛皮を剥ぎ取り、薪と一緒に背負って村へ帰っていった。
村に戻るとリオの様子を見た住人が周りに集まってきた。
「リオ!? こんな魔獣を一人で!?」
「ケガはないのか!?」
「すげぇ……あのウルフを」
賞賛と驚きの声に囲まれた。
「たいしたことではない」
と、リオネルは短く答えた。
(……まずいな。目立ちすぎたか)
「やっぱりリオはすごいな!」
「僕も今度、一緒に森に行ってもいい?」
大人たちに混じって少年たちが目を輝かせ声をあげる。
(……これが“尊敬”というものか)
かつての魔王は力を恐れられ、孤高であることに慣れていた。
だが今、その力に憧れる人々がいる。
リオネルは初めて、“誇らしさ”という感情に近いものを抱いた。
(面白い。この世界、人間の生き方。存外、飽きさせてくれなさそうだ)
そうして、かつての魔王は、村で一人の少年として新たな日々を歩み始めるのだった。
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