第4話 祝福を運ぶ者
朝の光が、乾いた土の上に静かに降り注いでいた。
リアナは、粗末な水瓶を抱えて小道を歩いていた。
村の奥、小さな泉のほとり。誰も訪れぬ時間帯を、そっと選んで。
焼けた土と、枯れ草だけが道端に続いている。
ときおり小鳥が羽ばたき、遠くからヤギの鳴く声が聞こえてきた。
静かな村だった。
いや、“静かにされた村”だった。
彼女は、ひとりで暮らしているわけではなかった。
だが、誰ひとりとして声をかけてはこない。
まるで存在そのものが、この世にないかのように──
村人たちは、リアナを「穢れの子」と呼び、視線を逸らし、ときに石を投げた。
リアナの肌には、生まれつき白く抜けた斑があった。
今の言葉で言えば、それは“尋常性白斑”という名のものだった。
けれど、父はこう言ってくれた。
――「主が与えたしるしや。恥じることやない」――
その言葉だけが、彼女の胸の支えだった。
けれどその父も、数年前、戦の報せと共に姿を消した。
それ以降、彼女の世界は急速に冷たく、乾いていった。
泉にたどり着いたリアナは、そっと水瓶を下ろす。
しゃがみ込み、手を水に浸すと、冷たさが心の奥まで沁みてくる。
(……お父さん)
水面に映った自分の顔をじっと見つめたまま、リアナは小さく息をついた。
(あの言葉……ほんまに信じてええんかな)
ふと、幼い日の記憶がよみがえる。
父の後ろ姿。石を積んで、小さな祭壇を築いていた。
焚き火の火が揺れ、父の声が夜風にまじって聞こえていた。
『祈りは、誰にも見られんところでするんや。
せやけど主は、ちゃんと見てくれとる。……ぜったいにな』
リアナはその言葉を信じたかった。
けれど、この村で石を投げられながら生きるうちに、
「祈る」という行為が、次第にひとつの儀式にしか思えなくなっていた。
それでも彼女は、パンを焼いた。
今では毎朝、村の古い祈りの小屋に供えるためのパンを、一人で焼いている。
誰もやりたがらない役目。忘れられた風習。
それでも、パンに祈りを込めることだけは、決してやめなかった。
帰り道の途中、リアナはふと、自分の名前の意味を思い出していた。
(リアナ……私の名前って、なんやったっけ)
父が笑いながら言った声が、胸に響く。
『リアナいうのはな、祝福を運ぶ者っちゅう意味なんや。
……ほんでな、おまえのパンは、誰よりも主に届く香りになる。』
今では誰も、彼女をその名で呼ばなくなった。
でも、パンを焼く時だけは、その言葉を思い出せる気がしていた。
(主よ……ほんまに、見とってくれはるん?)
風が吹いた。
草がふるえ、まるで誰かが答えたかのように、小さな音がひそやかに揺れる。
リアナは立ち上がり、水瓶を抱えなおす。
その背筋は、誰に見られなくとも、まっすぐだった。
小道を戻る途中、不意に足が止まった。
──そこに、「気配」があった。
振り返る。
けれど、誰の姿もない。
……ただ、丘のかなたの道の影に、
一瞬だけ風に揺れるフードの影を、彼女は見た気がした。
男だった。
長衣をまとい、顔は見えなかった。
そのとき――風が吹いた。
風の中に、声があった。
「……わたしは決してあなたを見捨てず、
決してあなたを離れない……」
リアナははっとして、顔を上げる。
誰もいない丘を見つめたまま、胸に手を当てる。
次の瞬間――
ぽたり、と、ひとしずく。
彼女の頬を、温かな涙が伝って落ちた。
自分でも気づかないほど、静かな涙だった。
目を閉じる。
もう一度、あの父の声が胸によみがえる。
『主が与えたしるしや。恥じることやない』
リアナは、水瓶をそっと抱きしめた。
そして、静かに、小道を戻っていく。
その背は、誰に見られなくとも――まっすぐだった。
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