プロローグ
川面を撫でる風が、まだ冬の名残を抱いていた。
武はコンクリートの欄干にもたれ、タバコを一本くわえたまま、火を点けずに見つめている。
灰色の空。
どこまでも静かな街。
水面に映る街灯の光が、ゆらゆらと揺れては消えていった。
「……あのとき、止めときゃよかったんじゃ」
つぶやきは風に溶け、誰にも届かない。
胸ポケットの中。
古びたグローブの皮紐が、くしゃりと音を立てた。
あの日のままだ。
ー[回想]ー
声が響く。
少年たちの笑い声と、ボールの弾む音。
「ナイスキャッチ!」
「わたるー、次バッターな!」
夕陽のグラウンドで、航は泥だらけのユニフォームで走っていた。
短い脚で必死にベースを駆け抜け、振り返って笑う顔はまぶしかった。
武はフェンスの外でその姿を見ながら、思わず拳を握った。
――あの笑顔を、守れると思っていた。
夜道の街灯が途切れ、信号が黄色に変わる。
助手席の航が笑っていた。
「次のコンビニでアイス買おうよ、親父!」
「おう、ええけぇ、掴まっとけ」
その笑い声が、最後の会話になった。
ライトの光が急に増えた。
視界の端で、トラックの影が大きく膨らむ。
ブレーキ。タイヤが悲鳴を上げる。
ハンドルが切れない。
フロントガラスに亀裂が走り、
粉雪みたいなガラスの破片が宙を舞った。
金属がねじれる音。
シートベルトが胸を締めつける。
世界が、音を失った。
焦げたゴムの匂い。
白いエアバッグの中で、
武は航の名前を叫んだ。
だが、その声は、
割れたガラスの向こうに吸い込まれていった。
――
武は深く息を吐いた。
指の隙間から、タバコが滑り落ちる。
「……もう、走れん、か」
誰に向けるでもなく、呟く。
だが、その瞳には、かすかな炎が残っていた。
胸の奥に、あの少年の笑い声がまだ生きている。
彼のために、まだ何かができる。
ポケットからスマホを取り出す。
画面の中の待ち受け――グローブを持って笑う航。
指が、震えながらその写真をなぞった。
「ワタル……お前の朝は、まだ終わっちゃいねぇけぇの」
ちりん。
風に押されて、ポケットの中のボール型キーホルダーが鳴いた。
光の欠片が、東の空を染め始める。
武はタバコを戻し、背筋を伸ばした。
「……行くか。今日も、病院じゃ」
そして、朝が来た。
長い夜を抜けた父と息子の、再生の物語が始まる。
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