私と桃太郎

 私は田端俊彦45歳。ブラック企業で勤務中、過剰なノルマや月100時間を超える残業による過労と、上司や同僚からの激しいパワハラにより鬱と不安障害を患い退職。15年間ニートの引き籠りを続けていた。


 食べるときとトイレ以外は部屋から出ずテレビゲームか漫画を読むか寝るかで、風呂に入るのも週に一度あるかないかくらいだった。元々野菜嫌いで母が作ってくれた料理の野菜には手をつけず、インスタント食品メインの食生活を送っていたため腹は出放題、不摂生な食生活に自堕落な生活も合間って体重は20キロ増え、頭は荒野の如く禿げ散らかし、肌はボロボロ、眉毛も髭もぼーぼーで、一度だけうっかり廊下ですれ違った妹の息子である楓(15)からはキモオタおやじと蔑まれる始末。


 年老いた両親は私の行く末を心配していたが、人生をやり直す勇気はなかった。職場で受けた仕打ちと長年の引きこもり生活で大人恐怖を拗らせた私は、家から出るだけでも恐ろしく、部屋の鍵もカーテンも閉め切って暮らしていた。働きに出るなどもっての外で、再び社会に出て同じ壁にぶつかり挫折を味わうくらいなら、たとえ外界から隔絶された孤独な状態であっても、傷つく心配のないこの生活のほうがずっとマシに思えた。


 何とかしなくてはいけない、このままではいけない。そんな焦りやもどかしさがなかったわけではない。再び立ち上がり歩き出す勇気も行動力も残ってはいなかった。少なくとも以前の私はそう思い込んでいた。


 愛犬の桃太郎がアジソン病だと分かったのは先月のことだった。免疫や代謝に関わるホルモンが生成されなくなる病気で、月に一度の注射をしなければ命に関わると、ワクチンを接種しに行ったついでに受けた検査で主治医から告げられたという。


 母からそれを聞かされたとき私はショックで咽び泣いた。中年男が幼い子供みたく声をあげて泣くなどみっともないと他人からは思われるだろうが、私にとって桃太郎は大切な家族であり、唯一心を許せるかけがえのない存在だった。


 桃太郎は柴犬だった。子犬の頃に母が近所の人から貰い受けてからというもの、桃太郎は5年間毎日私の隣で眠り、朝になると腹が減ったと前脚で私の頭をつつき、落ち込んでいるときはただ側で寄り添って頬を舐めてくれた。ゲームをしていると構えと鳴き私の周りを駆け回り、撫でてやると喜んで尻尾を丸くした。散歩に連れて行くのは父か母のどちらかだが、それ以外の世話は全て私が全て行い、桃太郎の性格も好きな食べ物やおもちゃも、細かい癖も体質も全て熟知しているつもりでいた。それでも彼がいつのまにか病気を患っていたことに、1番側にいた私が気づくことができなかった。今回たまたま検査をして見つかったからいいものの、もし検査をしていなければ命に関わったかもしれず、飼い主としての責任を痛感した。


「注射をすれば健康な犬と変わらない生活ができるって、お医者さんが言ってたわ。だからそんなに悲観しなくてもいいのよ」


 母親は励ましたが、心配でならなかった。インターネットでも嫌になるくらい病気について調べたが、出てくる情報は決してポジティブなものではなかった。桃太郎の病気は簡単には治らず、一生付き合っていかなければならない。注射をすればいいといっても、桃太郎の体調が急変しないとも限らない。もしそのとき家にいなかったら? 


 私には肝心の免許がない。一番近い動物病院まではバスで1時間近くかかる。タクシーを使うにも、タクシー会社が家から30分離れたところにしかなく、どのみち病院に着くまで時間がかかってしまう。


 運転さえできれば——。


 学生時代取った免許は更新しないままとっくに失効してしまっていた。若い頃の私は今よりずっと溌剌としてエネルギーに溢れ、教官たちや他の教習生と関わるのも苦ではなく、一回の学科と技能試験であっさり免許を取った。だが、今は話が違う。


 まず、15年もの間他人とのコミュニケーションをとっていなかった私は、家族以外の人間とどう話をするかとうに忘れてしまっていた。それに、若い頃はそれほど気にならなかったが、教官の中には厳しい人間もいて、スパルタ指導をされたりする。それに耐えられる自信もない。またあの面倒な講習や路上教習、試験を受けないといけないのかと思うと気が滅入る。


 しかし、免許さえあれば何かのときに私が桃太郎を病院に連れて行ける。桃太郎だけではない、両親も年老いて、母も元々身体丈夫でないためいつ何があるか分からない。もちろん怖いし不安だった。でも、家族のために自分が立ち上がらねばならない。就職をしろ、働けというノルマを自分に課すつもりはない。これまで役立たずで甘ったれで、いい年して親の脛を齧るだけのキモオタニート親父でしかなかった。それでも、たとえキモオタと呼ばれようが木偶の坊と思われようが、腹が出て禿げていようが、大切な存在のために立ち上がれる人間でいたかった。


 私は免許をとりにいくことに決めた。

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