色の檻

NewT

第一章:赤が見えない私

 白鷺ユイ《しらさぎ ゆい》にとって、世界は常に一枚の薄紙を隔てた向こう側にある、音の無い映画のようなものだった。

 それは「静けさ」と呼ぶにはあまりに深く、そして「孤独」と呼ぶには、ユイ自身が慣れ親しみすぎた領域であった。

 原因は、彼女の眼にあった。

 一般的な人々が生まれながらにしてその網膜に焼き付ける「赤」という色彩が、ユイの視界には決して映ることがない。

 それは欠落であり、生まれつきの不全だった。

 友人たちが頬を染めて語る夕焼けの情熱も、ユイの目には黒鉛の濃淡が空に滲んでいく様にしか見えず、真夏の太陽の下で咲き誇る薔薇の花弁も、ただベルベットの生地のような重たい陰影を宿すだけだ。

 横断歩道で人々が一斉に足を止める、あの信号機の光。誰もが強い制止の色として認識するそれは、ユイにとってはただ明滅する濃い灰色の円盤に過ぎない。

 隣に立つ小学生が、その灰色に向かって「まだ赤だよ」と母親の手を引く声を聞くたびに、ユイは自分だけが異なる法則の世界に生きていることを静かに実感するのだった。

 この生まれつきの色弱は、物心ついた頃からユイを周囲の世界から緩やかに、しかし確実に隔絶させてきた。


「見て、あのワンピースの赤、すごく綺麗!」。


 そう言ってショーウィンドウを指さす友人の弾んだ声も、熱に浮かされたように語られるスポーツ選手のユニフォームの色も、彼女には理解のできない異国の言葉のように空虚に響く。

 彼女はただ、曖昧に微笑んで頷くだけだ。

 そうやって、世界の色彩についていけない自分を巧みに隠す術だけが、年々、上達していった。

 けれど、ユイはその感覚を欠損であると、心の底から嘆いたことはなかった。

 むしろ、色が氾濫し、感情の起伏を無遠慮に掻き立てるこの世界に惑わされない「世界の静けさ」こそが、自分だけに与えられた特権なのだとさえ感じていた。

 色彩が告げる喧騒を遮断された彼女の感覚は、その代わりとでもいうように、別の次元の情報を拾い上げた。

 彼女にとって他人の感情は、色彩ではなく、ごく微かな音の響きとして感じ取られる。

 友人が隠し事をしている時、その声の輪郭は僅かに歪み、不協和音のようなざらつきを帯びる。

 教師が本当に生徒を心配している時、その言葉は温かい空気を震わせるような、柔らかな波紋となってユ-イの鼓膜を撫でた。

 だから、彼女は人の心の奥底にある「静かな部分」を、誰よりも繊細に感じ取る術を、いつしか身につけていた。

 言葉と表情の裏側に隠された、本人さえも気づいていないかもしれない真実の響き。それを聴き取れることが、ユイにとっての世界との唯一の繋がりであり、ささやかな誇りでもあった。

 だが、その静謐な心の湖の底には、決して拭うことのできないおりのような記憶が、今もなお沈んでいる。

 あれは、まだ陽の高かった、初夏の午後だった。

 アスファルトを焼く熱と、遠くで響くサイレンの音。

 人々の悲鳴ともつかない叫び声が、熱気の中で不快に反響していた。

 彼女の目の前で、何かが起こった。衝撃、金属の軋む音、そして何かが砕ける音。

 記憶は断片的で、まるで質の悪いフィルムのように途切れ途切れだ。

 確かなのは、その光景の中心に広がっていた「染み」のこと。

 周囲の人々は息を呑み、顔を覆い、あるいは蒼白になっていた。

 彼らの目にはきっと、命の色、鮮烈な赤が映っていたに違いない。

 けれど、ユイの視界に広がっていたのは、ただアスファルトの黒よりも少しだけ明るい、冷たい灰色の液体だった。

 まるで、誰かが誤って濃い絵の具をぶちまけてしまったかのような、何の感情も喚起しない、無機質な染み。

 痛みも、衝撃も、恐怖さえも、その無感動な灰色の中に吸い込まれ、埋もれてしまったかのように。

 あの瞬間、彼女の心と現実の間には、決定的な亀裂が入った。

 世界から色が失われたのではなく、世界の現実感そのものが、彼女の中から剥離してしまったのだ。


「私には、赤が見えない。だから、あの日の血も、ただの灰色だった」


 この一文が、白鷺ユイの静かな世界観を象徴し、そして彼女自身を守るための盾となっていた。

 しかし、その静けさの裏側で、何かが深く、そしておぞましく蠢いていることを、彼女はまだ知らない。

 その灰色に覆われた記憶こそが、やがて鮮烈な「痛み」と「熱」を伴って、彼女の世界のすべてを根底から揺るがすことになるということを。

 ユイはまだ、知る由もなかった。


(第一章 了)

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