第十六話:『女王の転落』

肌寒い秋の夜風が、アパートの壁に空いた巨大な風穴から、容赦なく吹き込んでくる。

床には、地獄の悪魔侯爵が、いまだ白目を剥いて転がっていた。


そして、俺たちの目の前のテーブル代わりに使っている樽の上には、一口ずつだけ減った、あの紫色の物体Xが、湯気とも瘴気ともつかぬものを立ち上らせている。


「うぅ…く、口の中が…痺れて…」


「組長様…もう、食べれません…」


イグニが涙目で訴える。当たり前だ。あんなものを食わされた後では、何も喉を通るわけがない。

そこに、大家の怒声が追い打ちをかける。


「いいか!壁の修繕費、銀貨三十枚だ!来月の家賃と一緒に払えなきゃ、叩き出すからな!」


一方的にそう告げると、大家は嵐のように去っていった。


残されたのは、静寂と、新たな借金という名の絶望。

俺は、震える手で、懐の金袋を樽の上にぶちまけた。


「待て…落ち着け俺…まず、銀貨100枚あっただろ…」


「敷金と家賃で15枚。聖女の無駄遣いで10枚。貴様らの下らん祝宴で5枚。残りは70枚だ」


リリスが、冷たく、正確に計算を口にする。


「そ、そこから、壁の修繕費で30枚引かれて…来月の家賃が5枚…ってことは…」


「大丈夫ですわ、組長さん!清く正しく生きていれば、きっと神様が見ていてくださいますわ!」


セシルが、何の根拠もなく、キラキラとした笑顔で言う。


「清く正しく生きてたら、今頃ベッドで寝てたんだよ!」


俺は、思わず叫んだ。


「…お金、もうすぐ、なくなっちゃいますね…」


イグニの、子供らしい、しかし残酷なまでの真理が、俺の胸に突き刺さった。

そうだ。手元に残るのは、わずか銀貨35枚。再び、あの窃盗と黒パンの日々に戻るのか…?


その考えが、全員の脳裏をよぎった、その時だった。

今まで黙り込んでいたリリスが、すっくと立ち上がった。その瞳には、先ほどまでの絶望ではない、ギラギラとした、狂的な光が宿っていた。


「…私が、全てを取り戻す」


「あ?何言ってんだ、お前」


彼女は、樽の上の銀貨の山を、鷲掴みにして袋に詰め始めた。


「おい、待て!その金に手を出すんじゃねえ!」


俺は、必死にその手を止めようとする。だが、リリスは、俺の手を振り払った。その瞳は、もはや正気ではなかった。


「離せ、小僧!この私に、女王であるこの私に、再びヘドロをすする生活をしろと申すか!嫌だ!私は、この一投で、全てを取り戻す!」


リリスは、そう言い放つと、銀貨の袋をひったくり、夜の闇へと飛び出していった。


「あっ!おい、待て!リリス!」


俺の制止も聞かず、彼女の姿はあっという間に見えなくなる。


「…リリスさん…?」


「…まあ。顔つきが、変わりましたわね…。これも、彼女に与えられた試練なのやもしれません…」


セシルが、何かを案じるように呟く。

俺の胸には、最悪の予感だけが渦巻いていた。


◇◇◇


リリスの行き先など、分かりきっていた。

俺たちは、スラムの奥にある、違法な巨大賭博場へと駆け込んだ。

そこは、紫煙とアルコール、そして人間の欲望の匂いが渦巻いていた。

その中央、ルーレット台を囲む人だかりの中に、彼女はいた。


「リリス!てめえ、何やってんだ!」


「来たか、小僧!見ているがいい!私が、この一家を、この絶望から救い出す、その瞬間を!」


リリスは、残りの財産である銀貨35枚を、全てチップに替え、ルーレットの"赤"のマスに置いた。


「…頼む…!」


ディーラーが回した玉が、カラカラと乾いた音を立てる。

そして―――奇跡が起きた。

玉は、まるで吸い寄せられるように、彼女が賭けた「赤」のマスに、コトン、と収まったのだ。


「「…勝った…?」」


「勝ったぞ、リリス!すげえ!おい、マジかよ!このクソギャンブラーが、初めて役に立ったぞ!」


「組長様!やりました!これで毎日ステーキが食べれますか!?明日の朝もですか!?」


イグニが、俺の服を、ぶんぶんと揺さぶる。 配当として、山のようなチップがリリスの前に積まれていく。銀貨70枚。失った金を取り戻し、なお余りある大金だった。


「まあ!神は、我々をお見捨てにはならなかったのですわ!さあ、リリスさん!この尊い勝利のお金で、まずは教会に十一献金を…」


「させるか!これは、俺たちの生活費だ!」


「フ…フフ…フハハハハ!見たか小僧!これぞ、女王たる私の豪運よ!」


リリスは高笑いし、これで、しばらくは安泰だ、と、俺も、思わず顔が緩んだ。


そう、誰もが思った、その時だった。

リリスが、その山のようになったチップを、再び、ルーレット台の上に押し出したのだ。


「リリス!?やめろ!調子に乗るな!もう勝ったんだから、帰るぞ!」


「あれ?帰らないんですか?ステーキは?」


イグニが、きょとんとした顔で、こちらを見ている。


「黙れ!黙れ貴様ら!今宵の私は、運命に愛されているのだ!この流れ、止める手はない!」


彼女は、恍惚の表情で、ディーラーに告げた。


「全額、"赤"だ!」


シン、と場が静まり返る。

ディーラーが回したルーレットの玉が、カラカラと乾いた音を立てる。その音だけが、やけに大きく聞こえた。やがて、玉は勢いを失い、ゆっくりと、無慈悲な「黒」のマスに、吸い込まれるように収まった。


時が、止まった。

リリスは、目の前でディーラーに回収されていく、俺たちの全財産だったチップの山を、虚ろな目で見つめていた。その瞳から、狂的な光がすうっと消えていく。


「……まあ」


その光景を見て、セシルが、なぜか感動したように、そっと胸の前で十字を切った。


「まあ! リリスさん! 賭博場の胴元に、銀貨70枚すべてを『寄付』なさるなんて! なんて尊い慈善活動でしょう!」


「寄付じゃねええええええええ!!!」


俺のツッコミと、リリスの壊れた呟きが重なる。


「…あと、一勝…それさえ、できれば…」


俺は、頭の中で、何かが、ブツン、と切れる音を聞いた。目の前が、真っ赤になる。俺は、ただ、本能のままに、ありったけの空気を吸い込み、叫んだ。


「てめええええええええええええええッ!!!!」


俺の絶叫だけが、欲望渦巻く賭博場に、虚しく響き渡った。


◇◇◇


翌日。肌寒い秋の朝の光の中、俺たち一家は、家賃も修繕費も払えず、手に入れたばかりの「我が家」から、全ての荷物と共に、叩き出された。


「出てけ、この甲斐性なしどもが!」


大家の怒声と共に、ガラクタ同然の荷物が道端に放り出される。 その中に、昨日からずっと気絶していたザガンも、「粗大ゴミ」のように転がり出た。 ゴロゴロと無様に転がされ、縁石に頭を打ち付けた衝撃で、彼はようやく意識を取り戻した。


「……む? ……余は確か、致死量の祝福を……?」


ザガンはゆっくりと起き上がり、目の前の光景を理解しようとした。 道端に散らばるガラクタ(俺たちの荷物)。抜け殻のリリス。祈るセシル。腹を空かせて泣くイグニ。そして、頭を抱える俺。


「……ん? 貴様ら、どうした? 家財道具一式、道端で虫干しでもしているのか?」


「てめえが!! 気持ちよく寝てる間に!!」


俺は、怒りの矛先をザガンにも向けた。


「こいつが! 俺たちの全財産を! ルーレットに突っ込んで、全部溶かしやがったんだよ!」


「…………ほう?」


俺の説明を聞いたザガンは、一瞬きょとんとした後、ゆっくりと状況を理解し――そして、腹を抱えて爆笑し始めた。


「ククク……クハハハハ! 素晴らしい! 悪魔すら浄化する料理で壁を破壊し、借金を背負い、それを返すためにギャンブルに手を出し、全財産を失って、路頭に迷う! 一晩で! たった一晩で、これほどの地獄を!!」


ザガンは、涙を流して笑い転げている。


「これぞNPO法人『天沢一家』の船出にふさわしい、最高の破滅ではないか!」


まさに、生き地獄だ。 高笑いする悪魔と、遠巻きに指を差して笑うスラムの住民たち。 俺は、絶望に沈む仲間たちを前に、無理やり胸を張った。そして、震える指で、スラムのさらに奥、まだ行ったこともない方向を、力強く指差す。


「…行くぞ、お前ら!いつまでも、こんな所で突っ立ってんじゃねえ!」


「組長さん…どこへ…?」


セシルの、か細い声が響く。


「決まってんだろ!」


俺は、ハッタリと、ヤケクソだけで、こう叫んだ。


「俺たちの…新しいアジトを探しにだ!」


(どこにあんだよ、そんなもん…!)

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