第四話:『絶望へのテコ入れ』

リリスにあった後、俺たちの日常は劇的に変わった――なんてことはなく。むしろ、悪化の一途を辿っていた。我が家は、金が一向にたまらないのだ。


その日の朝。カビ臭い倉庫の中で、俺は凍えるような寒さで目を覚ました。


「……っくしゅ! さっむ……」  


薄いシャツ一枚で床に寝ていた俺は、ガタガタと震えながら身を起こした。ふと横を見ると、木箱を並べた即席ベッドの上で、リリスが俺の唯一の上着を布団代わりに掛けて、優雅に寝息を立てていた。


「……スゥ……ムニャ……。そこだ、もっと貢げ……愚民ども……」


「……」


俺は無言で上着を引っ剥がした。


「ふぎゃっ!?な、何をする無礼者!」


「俺のだよ!てめえ、なんで居候の分際で一番いい場所を陣取ってんだよ!」


リリスは不満げに起き上がると、乱れた銀髪をかき上げた。


「何を言う。女王である私が床で寝るなど、国家の威信に関わる問題だぞ?」


「国なんてもうねえだろ!」


さらに、部屋の隅ではイグニが体操座りでこちらを見ている。


「……旦那様、お腹すきました」


「俺もだ。……おいリリス、昨日の稼ぎ、銅貨3枚あったよな? 1枚はパン買ったけど、残りの2枚どこやった?」


俺が問い詰めると、リリスはフイッと視線を逸らした。


「……美容品だ」


「は?」


「肌が荒れるのだ! こんな不潔な環境では、私の美貌が損なわれる! だから安物の化粧水を買った! 文句あるか!」


「飯を買えよおおおおおお!!」


 

これが、俺たちの新たな日常だ。 働かない、家事もしない、金だけ使う元女王。そして腹ペコの幼女。俺のストレスマッハな共同生活は、まだ始まったばかりだった。


「ククク……朝から元気だな、底辺ども」


頭上から呆れた声が降ってくる。見上げると、倉庫のはりの上に、ザガンが実体化して優雅に腰掛け、分厚い本を読んでいた。


こいつは最近、俺たちの貧乏生活を「朝の連ドラ」代わりに観賞するのが日課になっている。


「人間よ。余は、飽きた」


「あ? 見てんじゃねえよ。手伝え」


俺が雑巾を投げつけると、ザガンは本から目を離さず、それを片手でパシッと受け止め、青い炎で燃やし尽くした。


「貴様らの、その泥水をすするような毎日だ。あまりに情けなく、あまりに展開がない。……よし、決めた」


ザガンは本をパタンと閉じ、実体のある重みで梁を軋ませながら、ニヤリと笑った。


「今日、貴様のその薄汚い職場で、少し面白い「趣向」を凝らしてやろう」


「は? おい、何する気だ! 余計なことすんじゃねえぞ! 俺の唯一の収入源なんだぞ!」


俺の制止など、悪魔の耳には届かなかった。


◇◇◇


そして数時間後。俺は結局いつも通り、ヘドロの臭気が満ちる『第3集積水路』に来ていた。働かなければ、今夜のパンすらないのだ。


「クソッ……何も起こらなきゃいいが……」


俺が必死にシャベルを動かしていると、頭の中に直接、あの声が響いた。


『――開演だ』


ハッとして横を見ると、半透明の霊体となったザガンが、汚水の上に浮いていた。当然、周りの作業員や監督には見えていない。俺にだけ見える最悪の幽霊だ。


「(……おい! やめろ!)」



俺が小声で制止するのも聞かず、霊体のザガンは、指揮棒を振るように指をパチンと鳴らした。その瞬間、パキィィィッ!と甲高い音が響いた。


見れば、足元のヘドロがみるみるうちに硬質化し、青白く輝き始めている。


「な、なんだこりゃ!?」


異変は一瞬で水路全体へと広がった。足元から、壁から、天井から、汚泥が美しい水晶へと変わり、水路は幻想的な「宝石の洞窟」へと変貌を遂げた。


「す、すげえ……ヘドロが全部宝石に……!」


俺が感動したのも束の間。水路の奥から、ゴゴゴゴ……という地鳴りのような音が響いてきた。


「……ん?」


俺は気づいた。ヘドロが固まって水晶になったということは、つまり、「配管が完全に詰まった」ということだ。行き場を失った上流からの汚水が、圧力の限界を超えようとしていた。


「ま、まずい……!」


俺が逃げようとした瞬間。


 ドッガァァァァァァァン!!


爆音と共に、行き場を失った汚水が水晶の壁を突き破り、逆流して噴き出した。 現場は一瞬にして茶色い濁流に飲み込まれ、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。


「ぎゃああああ!俺の現場があああ!!」


「てっ、てめえ健太ァァァ! 何しやがったァァァ!!」


全身汚物まみれになった現場監督が、鬼の形相で俺に掴みかかってきた。


「ち、違います!俺じゃありません!」


「うるせえ!お前が触った瞬間爆発しただろうが!もう来んな! クビだクビ!賠償金請求するぞボケェ!!」


俺は必死に逃げ出した。悪魔の「芸術活動」のおかげで、俺は唯一の職を失い、さらに指名手配寸前の立場になった。


◇◇◇


夕方。稼ぎゼロ。職もなし。とぼとぼと倉庫に帰ってきた俺たちを待っていたのは、地獄のような空気だった。腹を空かせたイグニが、期待のこもった目で俺たちを迎える。


「旦那様、おかえりなさい! ……ごはんは?」


俺とリリスは、無言で目を逸らした。


「……ない」


「え?」


「ないんだ。仕事が……なくなった」


俺が力なく告げると、イグニはショックのあまり、その場でへたり込んだ。リリスは、腕に残った水晶の欠片をガリガリと削りながら、地を這うような声で言った。


「……元はと言えば、貴様が仕事をクビになったせいだぞ!」


「はぁ!? 俺のせいだと!? 原因はあのクソ悪魔だ! それに、てめえが朝、俺の金で化粧水なんぞ買ってなけりゃ、今日のパン代くらいあっただろうが!」


「あれは必要経費だと言っている!」


その怒声を聞き、本を読んでいたザガンが耳をふさぎながら文句を言う。


「なんだ。騒々しい」


「「てめえのせいだろうが!!」」



 俺とリリスが掴み合いの喧嘩を始めようとした、その時。


 ぐぅぅぅぅぅぅ………


イグニの腹の虫が、部屋の空気を震わせた。限界だ。


「……クソッ。詰んだか」


俺が床に大の字になった時、リリスが血走った目で立ち上がった。


「……いや、まだだ。こうなれば、あれをやるしかない」



リリスは、ドレスの隙間から一枚の羊皮紙を取り出し、樽のテーブルに叩きつけた。


「……見ろ、これだ」


『急募:中層・商業区。成金貴族邸より"呪いの宝石"を窃盗すべし。報酬、銀貨100枚』


俺は、その「銀貨100枚」という数字を、穴が開くほど凝視した。  この地下都市『タルタロス』において、貨幣の価値は残酷なほど明確だ。銅貨3枚。それが俺たちスラム民の命の値段。  

銀貨1枚は銅貨100枚に相当する。  


つまり、今回の報酬「銀貨100枚(金貨1枚)」は、俺たちが泥水を啜って約9年間働き続けて、ようやく手にできるかどうかの天文学的数字だ。成功すれば、人生が変わる。失敗すれば、死ぬ。シンプルな賭けだ。


「……強盗じゃねえか!しかも場所が『中層』だと?行けるわけねえだろ!」


俺は地図を睨み、そして反射的に天井を見上げた。


ここ『タルタロス』は、巨大な縦穴に築かれた三層構造の階層都市だ。俺たちがいるゴミ溜めの『下層』。  


その遥か頭上、分厚い岩盤の天井に隔てられた先に、ネオン輝く『中層商業区』がある。


さらにその上には、人工太陽が照らす『上層天井区』があるらしいが、俺たちには縁のない天国だ。


見上げれば、この広大な地下都市を支える柱のように、幾本もの『大螺旋階段』が天を貫いているのが見える。だが、どこの階段を使おうが無駄だ。


「どの階段にも、階層の境界には『検問所』があるんだぞ。武装したミノタウロスの警備兵が目を光らせてんだ。俺たちみたいなスラム民は、近づいただけでミンチにされるわ!」


「行きはどうとでもなる。『大螺旋階段』は我々下層の者どもでも無料だ。問題は『帰り』だ」


リリスは地図のスラムの端、誰も寄り付かない『東地区』を指差した。



「宝石を盗めば警報が鳴り、検問は封鎖される。だが、ここには先人たちが作った忘れられた『非公式階段』がある。ここを脱出ルートとして使う」


「……随分と危ない橋だな。それに、実行犯は誰だ?お前はポンコツ、俺は一般人だぞ」


俺とリリスの視線が、ゆっくりと、部屋の隅で腹をさすっている小さな竜人の少女に向けられた。そういえば、こいつ、鉄パイプを指先でちぎっていたな。


「……おい、イグニ」


「……はい、旦那様……」


俺はイグニの前にしゃがみ込み、今までで一番優しい声を出した。


「お前……竜人なんだろ? なんかこう、特別な力とか、ねえのか?」


「ちから……?わかりません……」


イグニはモジモジと手をいじった。


「でも、私の手、たまに、いうこときかないんです。」


「ん?どういうことだ?」


「前の村で、村長さんの銅像を撫でようとしたら、村長さんのお家ごと、ぺしゃんこになっちゃって……」


今、サラッととんでもないこと言わなかったか? 家ごとぺしゃんこ?


(……まあ、いい!細かいこたぁどうでもいい!)


背に腹は代えられない。俺はイグニの両肩を掴んだ。


「いいか、イグニ。難しいことは言わねえ。俺が『やれ』って言ったら、目の前の敵を、バーン!ってやるんだ!」


「バーン……?」


「そうだ!もし、それができたら……」


俺はゴクリと唾を飲み込み、最大の切り札を切った。


「メシをやる。腹一杯、山盛りのステーキを食わせてやる!」


その瞬間。イグニの虚ろだった瞳の奥に、チリ、と紅蓮の火花が散った。それは、飢えた獣の光だった。


「めし……!おなかいっぱい、おにく、たべれますか……?」


「ああ!約束する!(成功すればな)」


「やります!!」


イグニは、力強く、そしてはっきりと頷いた。


『ククク……食い物で手懐けるか。実に浅ましい。だが、悪くない』


こうして、俺たちは「得体の知れない幼女の暴力」に全てを賭けるという、最低で無謀な強盗計画に乗り出したのだった。


______________________________


第4話、お読みいただきありがとうございます。


職を失って5分で「強盗」を決断する主人公たち。 しかも実行犯は、ステーキで買収されました。 このパーティには、もはや倫理観のブレーキなど存在しません(笑)。


「こいつら、最低で最高だ」と楽しんでいただけたなら、ぜひ作品フォローと★3評価で、彼らの無謀な挑戦を後押ししてください。 執筆の励みになります。


次回予告: いざ、煌びやかな「中層」へ。 ですが、その入り口にはスラムの住人を見下す、傲慢な警備兵が待ち受けていました。


理不尽な侮辱に対し、彼らが選んだ報復。 それは、悪魔ザガンによる「呪い」のプレゼントでした。


次回、『検問突破と、悪魔の陰湿な復讐』。 その「ざまぁ」は、静かに、しかし確実に訪れます。

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