ようこそ、奈落の街へ Welcome to the Abyss
@SilentDean
第一話『ようこそ、奈落の街へ』 (Welcome to the Abyss)
アスファルトに染みた真夜中の匂いが、やけに鼻についた。
終電はとうにない。タクシー乗り場には絶望的な行列。柏木亮太(カシワギ リョウタ)は、コンビニのビニール袋を揺らしながら、ため息まじりに空を見上げた。いつものことだ。日付が変わるまで会社の蛍光灯に照らされ、栄養ドリンクと自責の念で胃を焼く。そんな日常が、もう何年続いているだろうか。
「……帰って寝よ」
誰に言うでもなく呟き、安アパートへの道を歩き出す。節約のために選んだ、街灯もまばらな裏路地。不意に、路地の奥にあるゴミ集積場が、ありえない光を放った。青白い閃光。車のヘッドライトとは明らかに違う、空間そのものが軋むような光量だった。
目を細めた瞬間、亮太の身体を強烈な浮遊感が襲う。エレベーターが急降下する時の、あの内臓がひっくり返るような不快感。平衡感覚がぐちゃぐちゃにかき混ぜられ、悲鳴を上げる間もなく、彼の意識はブラックアウトした。
……ごぼっ、と咳き込むと、肺から汚水のような味の空気が吐き出された。
次に感じたのは、嗅いだことのない匂いの洪水だった。
錆びた鉄と石炭の匂い。潮の香りと、得体の知れない獣の匂い。そして、香辛料と下水が混じり合った、むせ返るような生活臭。
「……どこだ、ここ」
よろよろと身を起こすと、そこは薄暗い石畳の路地裏だった。見慣れたアスファルトではない。見上げれば、空は赤黒い夕焼けに染まり、見たこともない様式の建物が、折り重なるようにひしめき合っていた。蒸気を噴き出すパイプが壁を走り、空にはゆっくりと、木製の翼を持つ奇妙な船が飛んでいる。
何より異様なのは、道行く人々だった。屈強な体つきに豚の鼻を持つ男。しなやかな身体に猫の耳と尻尾を生やした女。背は低いが、見事な髭をたくわえた頑健な老人。人間もいるが、その誰もが鋭い、油断ならない目をしている。
理解が追いつかない。夢だ。疲労が見せている幻覚か。そう思った時、背後から無遠慮な手が亮太の肩を掴んだ。
「おい、兄ちゃん。見ねえ顔だな」
振り向くと、爬虫類のような緑の肌をした男と、背の高い人間の男が、下卑た笑みを浮かべて立っていた。亮太が何か言う前に、爬虫類の男がその手にしたナイフをちらつかせる。
「身ぐるみ置いてけ。それがこの街の挨拶代わりだ」
抵抗は、無意味だった。ジャケットの内ポケットから財布が抜き取られ、安物の腕時計が引きちぎられる。最後に、チンピラの一人が亮太の手からスマートフォンをひったくった。
「なんだこりゃ? 薄っぺらい黒曜石か?」
「光ったぜ、今! なにかの魔道具か?」
彼らが物珍しそうにスマホをいじっている、その時だった。
ヒュン、と空気を切り裂く音。直後、チンピラが持っていたスマホが、甲高い音を立てて弾け飛んだ。スマホを撃ち抜いた「何か」は、そのまま背後の石壁に突き刺さる。それは、青白い魔力の光を放つ、流線形の弾丸だった。
「――な、何やつだ!?」
チンピラたちが叫びながら見上げた先、路地裏に突き出た建物の屋根に、人影が立っていた。
夕焼けを背負い、シルエットだけが浮かび上がる。小柄な少女のように見えた。
次の瞬間、人影は躊躇なく屋根から跳躍した。黒いコートを翻し、重力を無視したかのような動きで着地する。逆光の中に姿を現したのは、銀色の髪と赤い瞳を持つ、猫の耳を生やした獣人の少女だった。その両手には、鈍色に輝く二丁の魔導銃が握られている。
「あたしの獲物に手ぇ出してんじゃねえよ、三下ども」
少女――フレイは、まるで歌うように言った。
チンピラの一人がナイフを手に突進する。それに対し、フレイは一歩も動かない。ただ右手の銃口をこともなげに向け、引き金を引いた。
轟音。亮太の鼓膜が破れんばかりに震える。放たれた弾丸はチンピラの肩を砕き、彼は悲鳴と共に吹き飛んだ。フレイは返す刀で、怯えるもう一人の足元に左手の銃弾を撃ち込む。跳弾した石つぶてが男の頬を切り裂いた。
圧倒的な暴力。躊躇のない殺意。亮太は、腰が抜けてその場にへたり込んだ。
「さて、と」
フレイは転がるチンピラに一瞥もくれず、亮太の方に向き直る。赤い瞳が、値踏みするように亮太を上から下まで眺めた。
「こいつが『荷物』? 聞いてた話と随分違うじゃないか、チーフ」
フレイが忌々しげに吐き捨てると、路地の入り口から、新たな人影が現れた。
岩のような体躯を持つ、ドワーフの男だ。
「違いない。こいつが運んでいた『情報』ごと、回収する」
ドワーフ――ボルグは、亮太に近づくと、その巨体を見下ろした。
絶望的な状況。言葉も出ない亮太の耳に、ボルグの低い声が響く。
「ツイてなかったな、余所者。ようこそ、アズラ・ポートへ。――立て。お前には聞きたいことが山ほどある」
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