第19話 癒着する悪意と道具の再構築
激しい戦いから3日後。アキトは、リリアンの拠点にある簡易な治療室で目を覚ました。
彼は脇腹の傷に手を触れた。本来なら深く縫合が必要なはずの裂傷が、すでに薄いピンク色の皮膚に覆われている。左手の甲に突き刺したナイフの傷跡も、まるで数週間が経過したかのように、黒ずんだ小さな斑点になっているだけだった。
(速い……。こんなに早く傷が塞がるなんて、おかしい)
アキトは自身の回復力に戸惑いを覚えた。人間だった頃の彼は、ただの擦り傷でも治りが遅い体質だった。
彼は左手の甲の傷跡をじっと見つめた。そこには、ゾルグのナイフが突き刺さった箇所を中心に、微かに黒いインクのような筋が皮膚の下に広がっている。その筋に触れると、奥から冷たく、しかし焼けるような異質な熱が湧き上がった。
(これ、は……あの時の、ゾルグの魔力か?)
ナイフに宿っていたゾルグの魔力、あるいはナイフが魔界の金属で作られていたことによる影響か。幻術を破るために自ら身体を傷つけた代償として、微量ながら悪魔の力の一部がアキトのシステムに「癒着」したのだ。
部屋の隅、簡素なベッドに横たわるセレネが、かすかに身動ぎした。彼女の右足は厳重に包帯で巻かれ、その周囲には治癒魔術の残滓が漂っている。
セレネはアキトが目覚めたことに気づくと、静かに起き上がり、松葉杖を使ってアキトのベッドサイドまでやってきた。
「…無駄な体勢を起こさないで、人間」セレネはいつもの冷徹な口調に戻っていたが、その瞳には依然として困惑の色が残っていた。
「君の足は?」アキトは尋ねた。
「グレイの刃は深かった。当分の間、長距離転移は不可能ね。でも、わたしはお母さまから、あなたの監視と護衛を命じられている。役目は果たす」セレネは言った。
「監視?」
「そう。任務に反したあなたの行動は、ゾルグ様とお母さまにとって予測不能な要素なの。あなたを『道具』として安定させるため、私が行動を共にする必要がある。これもわたしの任務」
アキトは、その言葉に再び自己投影を重ねた。(彼女はまだ、自分の行動を『任務』という鎧で守っている。自分の命を道具として見捨てられそうになった事実から、目を背けている)
アキトは、セレネの心中にある微かな動揺を読み取ろうと、プレ・エモーションを集中させた。その瞬間、左手の甲の黒い筋が脈打ち、激しい頭痛と共に、彼の視界が一瞬だけ黒く染まった。
「ぐっ!」アキトは痛みに顔を歪めた。
「どうしたの!」セレネが警戒した。
アキトは痛みに耐えながら、セレネの感情の波動を改めて読み取った。
(…読める。以前よりも、はるかに鮮明に!)
セレネの感情は、表面上は「警戒」と「使命感」だが、その深層には「不安」「屈辱」、そしてアキトへの「不可解な感情」が、ガラス細工のように細かく見えた。それは以前の感情の波動の粗い読み取り方とは異なっていた。
ゾルグの悪魔の力が、アキトの異能であるプレ・エモーションを無理やり増幅させている。それは、アキトの人間としての心に、悪魔の冷酷さを混ぜ合わせるようだった。
(これは、まるで彼女の魂の設計図を見ているみたいだ。こんなに細部まで……悪魔の心の奥底まで、僕が覗き込めるなんて)
「セレネ、きみは、ぼくのことを……」なんと言葉にすればよいのか。アキトは痛みに苦しみながらも、セレネの瞳を見つめた。
セレネは、アキトの異変に気づき、静かに言った。
「アキト。あなたが私を助けた行動は、私にとって屈辱だった。私の命を救ったのは、悪魔ではなく、人間という下等な生き物。私はこの負い目を、任務の中でしか返せない」
彼女は松葉杖を強く握りしめた。
「だから、次の任務で、あなたは私の命令に従いなさい。そして、私はあなたを核の情報となる力の断片へと導く。それが、私たちが道具として互いに存在する、唯一の協定よ」
アキトは、セレネの瞳を見た。彼女が必死に悪魔としての『道具』のアイデンティティを守ろうとしているのがわかった。そして、彼自身もまた、『道具』という名の下に復讐の使命を放棄するつもりはない。
「わかったよ、セレネ。次の任務で、君の命令に従う」アキトは言った。
彼は左手の甲の傷跡を握りしめた。悪魔の力は、復讐心を燃料とする彼の新たな異能として、身体に定着しつつあった。
3日の休息期間は終わった。彼らの次の目的地は、魔界の深部にある『怠惰のベルフェゴール』の潜む、『忘却の迷宮』だ。
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