第10話 魔王の庭の罠と猛牛の終焉

 アキトは、旧・魔王の庭の結界が乱れる中心へと足を進めた。霧のような魔力の乱れが肌に張り付き、彼の感覚を常に揺さぶる。その不快感と死の恐怖が、彼のプレ・エモーションを極限まで研ぎ澄ませた。


(来る……!)


 アキトの異能が、遠方から接近する巨大で単純な殺意を捉えた。それはヴィルヘルムのような陰湿なものではなく、すべてを叩き潰すことを目的とした、純粋な剛力と怒りの衝動だ。


 猛牛のグスタフ。体長3メートルを超え、全身が鋼のような筋肉に覆われた悪魔。頭部には巨大な角が生え、その突進は岩山すら砕く。


「俺の相棒の仇はどこだ! 貴様は俺の獲物だ! 相棒の仇、今すぐ償わせる!」


 グスタフの咆哮が、不安定な庭の魔力を震わせる。


 ゾルグの声が、アキトの意識に直接響いた。「近づきすぎたぞ、アキト。貴様の獲物は、五秒後に最も不安定な魔力の座標に到達する。貴様はその座標を正確に避け、奴を誘い込め」


 アキトのプレ・エモーションは、グスタフの次の行動、そして庭の結界の次の揺らぎを、同時に予測した。彼の視界は、グスタフの突進のベクトルと、その先に存在する「崩壊の予兆」を映し出す。


(座標…ここだ!)


 アキトは、地面に描かれた見えない座標を把握し、グスタフの突進に合わせて、身体を投げ出すように横へ転がった。


 ドォォォォン!


 グスタフの突進は、アキトがわずか一秒前にいた場所を通過し、そのまま勢いよく、アキトが予測した魔力不安定点へと突っ込んだ。


 その瞬間、ゾルグが動いた。塔の頂上から、ゾルグが極限まで圧縮した魔力を、旧・魔王の庭の特定の一点へ、ピンポイントで放つ。それは、グスタフを直接攻撃するのではなく、結界の弱いバランスを崩すための、精密な一撃だった。


 グシャアァァァ!


 グスタフの突進力が、結界の崩壊による不規則な魔力乱流と激突した。空間そのものが歪み、グスタフの身体が異常な重力に晒されたかのように、一瞬にして動きを止められた。彼の鋼の肉体が、内部から圧迫されるような悲鳴をあげ、角が地面にめり込む。


「ぐっ…な、何だ…!? 身体が…動かん!」グスタフは呻いた。


 リリアンの声が、冷徹な勝利の宣告のように響いた。「その庭は、魔王様が力の訓練に用いた場所。あなたの剛力と突進は、不規則な魔力の乱れの前では、ただの重い荷物になるのよ、グスタフ」


 ゾルグの声が、アキトの耳元で命令した。「今だ、人間兵器アキト! 仕留めろ! 奴の動きが完全に止まっているのは、わずか五秒だ!」


 アキトは、立ち上がると同時に、全速力でグスタフへと駆け寄った。彼の恐怖は、すでに集中へと昇華されていた。


 プレ・エモーションが示すのは、グスタフの分厚い筋肉の中の、心臓への最短距離だ。


 グスタフは、魔力の圧迫から抜け出そうと必死にもがいていたが、巨大な体躯が仇となり、その動作は鈍い。


 アキトは、その巨大な悪魔の脇腹へ飛びついた。その瞬間、グスタフは、目の前にいるのが、ヴィルヘルムを殺した「人間」であることに気づき、驚愕に目を見開いた。


「き、貴様ぁ…!」


 グスタフが拳を振り上げるよりも早く、アキトはゾルグの魔力で強化されたナイフを、全身の体重を乗せて、グスタフの脇腹の鱗の繋ぎ目へ、一気に突き刺した。


 ガッ…ズルッ!


 ナイフは分厚い筋肉を避け、狙い通り深々と内臓へと突き刺さった。グスタフの口から、血の泡が吹き出し、魔力が急激に失われていく。


「バ…カな…この、わたしが…こんな、人…間…に…」


 グスタフの身体から力が抜け、魔力の圧迫から解放された庭の空気に、巨体がゆっくりと倒れ込んだ。


 アキトは、ナイフを引き抜き、グスタフの魔族の血に塗れた。動かない巨体を見下ろし、達成感と、同時に吐き気のような空虚感に襲われる。


 ゾルグの声が、熱を帯びた感情で響いた。「二柱の使い魔候補を単独で仕留めた。よくやった、アキト! 貴様は、私とリリアンにとって最高の兵器だ!」


 リリアンの声も甘く響いた。「素晴らしいわ、アキト。これで私たちの計画は一歩前進した。早く戻ってきて。あなたには、ねぎらいと、次の任務の情報が必要でしょう?」


 アキトの復讐への渇望は、満たされるどころか、さらに深く、暗いものへと変質していた。彼は、いじめっ子たちから承認を得られなかった孤独から、今や悪魔たちから「兵器としての承認」を得ることで、存在価値を見出していた。


(これで……僕は、いじめられていた頃の、無力な僕じゃない……!)


 血まみれのナイフを握りしめ、アキトは魔族の血を浴びた誇らしさと、二柱の悪魔に支配される絶望の中で、塔へと歩みを始めた。彼の魂は、ますます純粋な復讐の毒に侵されていく。


 アキトが背を向け、数歩歩き出した、その時。


 地面に倒れたグスタフの、巨大な鋼の指が、ピクリと、わずかに動いた。

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