隣国王子にさらわれたのは“国ごと”でした

妙原奇天/KITEN Myohara

第1話 婚約披露の夜、国境ごと連行

 拍手は絹のこすれる音に似ていた。侯爵家の大広間、金箔の柱の向こうで、私の婚約者ユリウスは祝辞の代わりに笑っていた。

「境の村を、向こうに渡す手はずが整った」

 耳打ちに、私は杯を落としかける。渡す? 人の暮らしを、地図の線一本で。

 次の瞬間、黒衣の男が前に出て跪いた。隣国第二王子、レオン・ヴァルツ。灰色の瞳は井戸水のように澄んでいた。

「アメリア・ローウェル嬢。あなたを“お連れする”。——国境ごと」

 ざわめきが凍りつく。私は笑ってしまった。恐怖ではなく、馬鹿らしさに。

「連れ去って、どうなさるおつもり?」

「総督になっていただく。荒れた辺境を、あなたの手で」

 冗談にしては書類の束が重い。封蝋には王家の金印。塩税改正、関所通行の統一料金、水路利権の再編、徴税の透明化。どれも、喉に刺さっていた棘だ。

「……拉致の口実が優等生すぎますね」

「君の婚約者はこの取引に署名した。境の村を差し出す代わりに、爵位の上積みを。私はそれを“買い戻す”。君の署名で」

 私は杯を置き、背筋を伸ばした。

「条件があります。私の印章が押される窓口に、行列は作らせない」

 レオンは目を細め、口の端で笑った。

「いい総督になる。——行こう、アメリア」



 夜明け、石造りの庁舎は思ったより小さかった。扉の丁番は悲鳴を上げ、執務室には机が一つ、椅子は三脚。窓の外、土の広場には既に列が伸びている。

「ようこそ、地獄へ。――あ、歓迎の意です」

 皮肉をリボンで包むような声の女が一礼した。栗髪をすっきり纏め、手には分厚い帳簿。

「書記官のミラです。案件は塩納の減免、水汲み許可、荷車通行、治安の嘆願、行方不明者の捜索……それから“前総督への罵倒”が少々」

「罵倒は後回しでいいわ」

 私は上着を脱ぎ、袖をまくる。

「まず列を消す。番号札を作るわ」

「番号……?」

「順番を可視化して、案件を三つに切る。“命に関わる即応”“営業許可と税”“その他”。窓口を分けて、記入台を外へ。必要項目は——」

「申請者名、住所、案件、根拠の証明書類……ですね」

「ええ。書けない人向けに聞き取り担当を二人。該当が“水路”なら、そのまま水路ギルド窓へ回せる“外窓”を壁にあけたい。庁舎の中に入れないで流すの」

「壁に穴を?」

「窓よ。扉が一つだから滞るの。外に出すの」

 ミラはぱちぱちと瞬き、口角を上げた。

「面白い。皮肉は後で考えます。今は札と窓ですね」


 レオンが肩越しに覗き込む。

「資材はある。大工を手配しよう」

「いえ、穴は私が指示するだけでいい。大工の賃金は“臨時雇用”として張り紙を。若い男手が列にいます」

「任せる。だから守る」

 その言い方はずるい、と少し思う。私がこの街を背負いたい気持ちを、言葉で肯定してくる。



 午前。私は広場に木箱をひっくり返して立った。

「皆さん、番号札です。命に関わることは赤、仕事に関わることは青、その他は白。色で窓が分かれます。書けない方は聞き取りに並んでください」

 文句は出る。制度はいつだって“昨日のやり方”を傷つける。だが、色は強い。赤い札の列は自然に道を開けられ、青い札の列は荷車の通行路へ伸びた。

 私は“外窓”の位置を決め、土壁に印をつける。大工が槌を振るい、壁に四角い明かりが生まれる。そこに古い机をはめ、窓口とした。内側の通路には「赤→医務室/夜営」「青→市場許可」「白→相談」の札。

「記入台の見本は“余白”を広めに。人は枠が狭いと嘘を書くから」

「皮肉が無料のままですね、総督」

 ミラが乾いた笑いをくれる。良い書記官だ。


 昼過ぎ、列は目に見えて短くなった。赤い札は半刻で全件捌け、青い札は窓口が二つに増えて流れ始める。白い札の“相談”は、町の古老二人と教会の姉妹に委任して一旦の聞き置きに変えた。

「……行列が、消えた」

 誰かが呟く。

 私は胸の奥の石が一つ転がる音を聞いた気がした。窓口の怒号が和らぐと、広場の空気まで軽くなる。子どもが走り、塩袋を抱えた女が腰を伸ばした。


「総督。――最初の決裁です」

 ミラが一枚の紙を差し出す。〈臨時雇用の設置と外窓の暫定運用〉。私は印章を取る。だが、石の机はぐらつき、判の輪郭が歪みそうで、息を飲む。

 その時、私の手首に温いものが触れた。

「支えるだけだ」

 レオンの手だった。指先が、私の親指の根元と机の縁を同時に押さえる。判面が、ぴたりと紙に落ちた。

 金印の赤が滲み、乾いていく。

「初めての印は緊張しますね」

「誰だって初日は震える。震えている方が、乱暴にならない」

 彼は手を離さない。離して、と言うべきだった。けれど、今は少しだけ、この重さを借りたい。

「——ありがとう、殿下」

「名前で呼んでくれ」

 不意に、彼は視線を落とした。灰の瞳が、思っていたより柔らかい。

「レオン。私はアメリア。ここでは、肩書きより仕事が先」

「了解した、アメリア」



 夕刻。広場に灯がともる。外窓の木枠はまだ新しい匂いがし、青い札はほとんど片付いた。

「今日だけで、満足度は跳ねますよ」

 ミラが帳面を繰る。

「“満足度”は何で測る?」

「窓口の滞在時間。怒号の回数。帰りの顔」

「いい指標ね。明日、砂時計を各窓口に置きましょう。平均時間を出すの」

「皮肉は有料にしてもいいですか?」

「その予算は来月」

 軽口が交わる。空の色は青から群青へ、そして墨へ。

 私は庁舎の屋上に上がり、新しい水路の線を地図に引いた。港へ通じる古い運河の堤は崩れている。補修入札の掲示、塩税の物納率の見直し、流民への夜営場所の指定……やることは尽きない。

 背後で、靴音。

「風が冷える」

 レオンが上着を肩に掛けた。

「任せる。だから守る、だったわね」

「言った通りにする。言葉は、約束の最小単位だから」

 彼の横顔は、灯に照らされて輪郭だけが少し金色になる。

「なら、私も言葉を。——この街を私の仕事にする」

「その言葉を守るために、俺は君を守る」


 屋上の手すりに、二つの影が並んだ。

 “拉致”から始まった一日は、最初の“自治”で終わる。

 明日は水路ギルドとの会談だ。私は地図を丸め、印章を革袋にしまい、広場の灯が消えるのを見届けた。

 行列は、もうない。ここからが始まりだ。

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