クレイスフィール ー黎明ー:無継者の目覚め

嶺岸朔

序章

序章

 世界と〈約束〉が交わされたあの日から、

 ラカだけが、それを探し続けていた。


 彼女にとって“それ”は希望だった。

 世界に再び均衡をもたらす、宝具を使える最初の者。





 ――『大揺らぎの満月』の夜。


 カサッ──


 草をかすめる音が静寂を破り、すぐに消えた。

 月光が枝の隙間からこぼれ、地面に淡い藍の影を落とす。

 夜は凪いでいたが、その隙を裂くように白銀の気配が走る。


 鹿人獣の少女、ラカ。

 短い尾が揺れ、柔らかな毛並みは月光を受けて淡く光る。

 小さな枝角は風を切り、琅玕ろうかんの瞳が前方を鋭く射抜く。


 彼女は走っていた。

 森の奥へ、夜の闇を縫うように。


 胸に小さく脈打つ衝撃――

 普段はかすかなざわめきに過ぎない感覚が、今夜は導きとして確かな形を帯びていた。


「……やっとだ」


 声は吐息に混ざり、静かな夜がその言葉をそっと受け止めた。


 旅を始めて一九二年。

 満月をいくつも越え、うずきを感じては届かず、六度の挫折を重ねてきた。


 初めての疼きは驚きと希望。

 二度、三度は信じて追い、

 四度目には苛立ちを覚え、

 五度目には問いかけ、

 六度目には言葉も失った。


 それでも足を止めなかった。

 進む以外に道はなかったからだ。


 そして今――七度目。

 疼きは消えず、胸の奥で確信に変わりつつある。


 ラカは地を蹴り、藍の影の中を駆け抜けた。

 月光は枝を抜け、背中に滑り込み、走るたびに夜の景色が後ろへ流れる。

 草のざわめきだけが、彼女の通過を告げる静かな証人だった。


 胸の熱は増し、月光は輪郭をさらに鮮明に照らす。


 踏み込みが変わる。

 苔に足をとられ、視界が跳ねる。


 宙で身をひねり、片膝で静かに着地する。

 胸元に手をやり、小さなペンダントをぎゅっと握りしめる。


「……落ち着け」


 自分に呼びかけるように息を整え、額を上げて進む先を見据える。

 瞳に迷いはなかった。


 再び地を蹴った。

 月は高く、森の匂いも音も静まり返っている。

 その中で、胸の奥だけが確かな方向を示していた。


 ――気配が変わった。


 森の息が止まり、次の瞬間、夜の空気に湿り気が混ざった。


 冷えた風がじわりと重く、肺の奥に沈む。

 喉がざらつき、鈍い苦しさが広がった。


 その冷たさは、普段の静かな夜とはまったく違っていた。


 足を止めず、ただ、変化を受け止める。


(闇が……森に深く入り込んでいる)


 周囲がざわめき始める。

 木々が囁き、葉が擦れる音に緊張が混じり、根が軋む。


 目に見えぬ何かが、森全体をじわじわと覆っていた。


 ――闇だ。


 右前方の茂みが裂け、黒ずんだ影が姿を現す。


 飛び出したのは一匹の兎。

 だが姿は歪んでいた。


 毛並みには黒い霧が滲み、かつての白い瞳は墨を落としたように濁る。

 足音を立てず跳びかかり、牙を剥いて襲いかかる。


「……闇に侵されたか」


 低く、感情を抑えた声でつぶやき、確信だけが胸にあった。


 身をひねってかわす。

 矢筒から手が滑り、指が弦に触れる。


 やじりのない白羽の矢が月光を受け、淡く光る。

 引き絞ると、矢は風をまとい――放たれる。


 風を裂く矢が兎に触れると、黒い霧が蒸気のように揺れ、夜に溶けていく。


 兎は力を失い、音もなく地に倒れた。

 まるで眠るかのように、静かだった。


 手を矢筒に戻し、視線を逸らさず走り続ける。


 次の瞬間、空気が一変した。


 喉の奥に鋭い圧迫感が突き刺さり、足元の冷気は濃く垂れ込む。

 森全体が淀むように、沈黙と重苦しさに包まれた。


 闇の濃度が急に跳ね上がる。

 何かが、この場所の均衡を破ったのだ。


 そして――


 咆哮が森を切り裂いた。


 それは獣の声でありながら、獣ではなかった。


 黒い霧の塊が四肢を大地に沈めながら、ずるずると進む。

 熊の原形を留めつつ、顔は仮面のように無表情で、青白く光る目だけが異様に輝いていた。


「……崩晶獣ほうしょうじゅう……!」


 声が漏れ、胸が一瞬揺れる。


 崩晶獣――宿主の肉体から闇が完全に分離し、感情の濁りで編まれた“闇の化身”。

 この場所がほぼ“淀み”に近い証だった。


 だが、躊躇はしない。


 崩晶獣が咆哮とともに踏み込む。

 地面が悲鳴を上げ、足元がたわむ。


 空気が重くうねり、押し付ける圧力。

 その奥から、世界ごと呑まれるような気配が広がる。


(……引き込まれてたまるか)


 ラカは息を整え、足を踏み込み、走り続ける。


 動きを見切り、真横に跳ぶ。

 木の幹を蹴り、宙に舞う。


 その一瞬、三本の矢が連続で放たれた。


 風をまとった白羽の矢が黒い影に触れ、闇が削がれ崩れる。


 崩晶獣は咆哮をあげて動きを鈍らせ、霧の欠片が落ちる。

 ラカは隙をついて地面に戻り、さらに駆ける。


 追撃は来ない。

 闇を削ぐたび、崩晶獣の動きは鈍る。


 目的は“退”ではない。

 突破――先を目指すこと。


 胸の疼きは確かに先を示す。

 近づくほどに、その震えは導きへと変わっていく。


 闇の浸食は続く。

 小動物が呻き声を上げて崩晶化し、幹が割れ、木が牙を剥く異変も起こる。


 ラカは一つずつ弓を払い、刃を振り、しなやかにくぐり抜け進む。


 闇はそこにある。

 しかし確実に命を蝕む。

 幾度も目にし、知っている。


 だから止まらない。

 息を切らさず、目を逸らさず、進み続ける。


 黒い闇が次々と現れ、牙を剥いて襲う。

 矢が閃き、刃が払うたび、霧ははじけ、闇が揺れる。


 胸の疼きがひたすら前を示す。


 駆け続ける――まだ先に。


 風が変わった。

 森を抜けると、視界が急に開けた。

 眼前には夜空と海が滲むように広がる。

 潮の香りが風に乗って鼻腔をくすぐり、耳には波の微かな囁きが届く。


 そこは海沿いの断崖だった。

 ラカは立ち止まり、風に髪をなびかせ、辺りを見渡す。


 崖の下――月明かりに照らされた砂浜に、朽ちかけた遺構が寄り添うように佇んでいた。

 まるで、崖に噛まれた古の獣が沈黙しているかのようだ。


 壁の一部は崩れ、天井も抜け落ちている。

 しかし建物の輪郭はまだ残り、内部の闇は海に口を開けたように、何かを待つかのように静かだった。


「……宝具の遺構」

(……でも、この場所だったか)


 こぼれるように記憶が溢れ出す。

 だが、そのどれもが指の隙間から零れ落ちていくようだった。

 思い出せそうで、思い出せない。

 脳裏の片隅に微かに残るのは、夢の中の景色と現実の感触が入り混じった、不確かな輪郭だけだった。

 胸の奥で、何かが静かに、波打つように揺れていた。


 世界のどの地図にも載らないはずの建物が、月明かりの下に、まるで最初からそこにあったかのように静かに沈黙して佇んでいる。

 瓦礫の陰影に混じる風の匂い、崖を伝う潮の湿り気、ひんやりとした夜気の肌触り──それらすべてが、建物を包む静寂を一層際立たせていた。


 ラカが曖昧な記憶を辿ろうとするその前で、どろりとした闇の流れが崖を這い、ゆっくりと遺構の方へと吸い込まれていく。

 雲海のように重く、静かな奔流は、時間の流れまでもゆっくりと押し広げるようだった。


(なるほど……遺構の出現も、この闇の濃さも……宝具の間の封印が解けたせいか)


 その流れは、崖と建物の隙間――

 天井が半壊し、植物が微かに育っている半地下の空間へと静かに吸い込まれていく。

 ラカはその動きをただ見つめ、胸の奥で心拍が微かに早まるのを感じた。


 暗がりの中で、二つの光が夜空の一等星のように瞬いた。

 ひとつは淡く揺れる黄色、もうひとつは静かにきらめく薄青。

 かすかに震える光は闇の中でも迷わず、そこに在った。

 月光を受ける瓦礫の隙間や、壁のひび割れに反射し、光はわずかに揺らめいている。


 ラカはその瞬間、胸の奥で確かな確信を感じる。

 探し求めていた“誰か”が、ついにここに辿り着いたのだ。

 胸の奥の鼓動が高鳴り、呼吸は少しだけ早まった。


「…ついに、終わりが始まる」


 目を閉じ、ペンダントを握りしめる。冷たい金属の感触が掌に伝わり、一瞬だけ心が落ち着く。

 深く息を吸い、吐く。

 そして目を開く。

 二つの光を迷わず見据え、ラカは崖を駆け下りた。


 闇の流れを追い、ラカは半壊した壁の縁へ跳んだ。

 軽やかに着地する。

 足元の瓦礫が小さく崩れ、音を立てる。

 それでも体勢を崩すことなく、静かに地面を踏みしめた。


 そこは半地下――宝具の間。


 月明かりが崩れた天井から差し込み、瓦礫の散らばる部屋を淡く照らす。

 中央の祭壇は崩れ落ち、割れ目は鋭く、瓦礫はなお新しい。

 空気は湿っており、崩れた壁の向こうから、夜の静けさと、わずかな潮の香りが混ざって漂っていた。


 その中心に立つのは、黒い霧を幾重にもまとった異形――崩晶獣ほうしょうじゅう

 獣の輪郭を保ちながら、一瞬だけ老人の皺の刻まれた顔が浮かび、すぐ闇に呑まれた。


 ラカの琅玕ろうかんの瞳が揺れる。

「……人から……?」

 思わずかすれた声が漏れた。


 闇に侵される動物や植物は何度も見てきた。

 だが、人を宿主とした崩晶獣は初めてだ。その異様さと恐怖に、背筋が冷たく震える。


 視線をそっと逸らすと、砕けた祭壇の傍らに、皺深い老人が力なく倒れている。

 答えは明白だった――つい今しがた、この場で人が闇に呑まれたのだ。


 闇の奥で、何かが光を宿した。

 そして崩晶獣の足元には――一人の少年が尻もちをつき、両腕で双剣を抱えていた。

 柄に埋め込まれた二つの宝石が、淡く光を揺らめかせている。


 小さな肩は震え、膝は石畳に擦れる。

 立ち上がろうとするが崩れ、唇を噛みしめ、瞳は恐怖に揺れ、呼吸だけが荒い。


 それでも光だけは手放さない。

 まるで、それが自分の命そのものだと言わんばかりに。

 その瞳の奥には、誰かを守ろうとする、拙くも確かな意志が揺れていた。


 ラカはしばし息を飲み、胸の奥で心を整理する。

 長く追い求めた答えの前で、自分の目に映るのは、まだ幼さの残る小さな存在だった。

 手足の頼りなさ、揺れる意志、そのすべてが、これまでの自分の探求の重みと重なる。


 疼きはまだ消えていない。

 崩れた祭壇と少年の光――“宝具を使える最初の者”の到来を告げていた。


 確信と戸惑いが交錯する中、ラカの視線は少年に留まった。

 呼吸を整え、ゆっくりと足を踏み出す。

「……この子なの……?」

 声にならない問いが、ひそやかに、しかし確かに胸の奥に響いた。


 アルビス──

 世界の光と影の間にそっと置かれた、小さな“余白”のような少年。




『大揺らぎの満月』の夜――長く沈黙していた世界の奥で、微かな起動音がひとつ、静かに響き渡った。

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