第2話「差止? では要件を満たしましょう」

 鐘が三つ、王都の空に散った。公開審理まで、残り四刻。

 私は法務院の閲覧室に籠もり、証拠箱の中身を机に並べた。上質紙に踊る数字、羊皮紙の擦れ、添付されたリボンの結び目。紙は嘘をつかない——つくのはいつも人だ。

(落ち着け。争点は二つに縮む)

 一、回復困難な損害が本当にあるのか。

 二、必要性・緊急性はどこまで実体があるのか。

 この二枚の壁を、言葉と証拠で欠かせばいい。


「リディア殿、逐語録係です」

 扉の陰から顔をのぞかせた青年が、胸に板を抱えて会釈した。

「本日の記録、誤りなきよう——」

「ありがとう。審理では定義の確認から入ります。審理官に“要件の文言”を自ら言わせてください」

「復唱させる、のですね」

「ええ。法は声にすると弱点が見える」

 青年は目を丸くしたが、すぐに頷いた。


 私は資料を三つの束に分けた。

 束A:王子の勤怠——出勤簿・議事録・公務日誌。

 束B:利害関係——入札ログ・倉庫出入り記録・支払い台帳。

 束C:決裁の実体——先んじ決裁メモ・電子押印の時刻証明・長官の署名サンプル。

(Aで損害の実体を薄くし、Bで“公衆の利益”を厚くする。Cは最後の石だ)

 さらに私は書付を一枚、筆でしたためた。審理官に渡す“争点限定の申出書”。

 ——本件は「辞令の効力停止」が対象であり、「辞令そのものの無効宣言」ではない。対象を限定すれば、老侯の攻め道は狭くなる。


 控室の窓から王都の広場が見える。市壁の掲示板には官報の鮮やかな朱、書き込みだらけの掲示。人波の端に、子どもが指さしながら母親に問うているのが見えた。

「“配置てんかん”ってなに?」

「転換、よ。合う場所へ動かすってこと」

(そう、それだ。ざまぁは叫ばない。配置する)


 審理の時刻。法務院の大広間は満席だった。傍聴席の最前列には、商人ギルドの代表、町衆、神殿の書記、そして噂好きの新聞売り。

 中央の壇に審理官が立つ。短く告げた。

「本審理は公開で行う。記録官、逐語録の用意を。——申立人側、主張を」

 老侯ディートが立ち上がる。杖は軽い。声は重い。

「辞令の執行は、王子殿下の社会的信用を不可逆に損なう。回復困難である。よって四十八時間と言わず、結論まで停止を延長すべきである」

 堂々とした手振り。傍聴席が頷く。言葉の印象は強い。

(だから、定義に戻して薄める)


「異議なし」私は立ち上がった。「ただし、定義の確認を求めます。審理官、本件『回復困難な損害』の範囲は——」

 審理官が口を開く。

「金銭賠償では足りない人格的・社会的利益の毀損を指す。ただし、職務遂行能力に由来する評価の低下は、原則として本人の責めに帰すべき事情である」

「感謝します」私は一礼した。「では、本人の勤怠記録を確認します」

 机上に束Aを置く。出勤簿の欠勤印、電子議事録の空欄、未提出の週報。

「過去半年の欠勤四十七日。議事録への発言ゼロ。これらは金銭賠償不可能な人格的利益に該当しますか?」

 審理官は手元の紙をめくり、静かに頷いた。

「——該当しないだろう」

 ざわ……と波が立つ。老侯の眉がぴくりと動いた。


「さらに、必要性・緊急性」私は束Bを持ち上げた。「国益が損なわれる、という申立人の主張。しかし王子殿下の補佐としての技能は、どの資料で示されます?」

 老侯は杖を鳴らした。

「王子は王位継承者であらせられる。それ自体が——」

「地位の話ではなく、職能の話をしています」私は静かに重ねる。「外務の補佐に必要な交渉記録、条約草案への修正履歴、他国使節への応対記録——一片でもあれば示してください」

 沈黙。

(争点縮小の完了。必要性は、示されなければ“必要でない”)

 私は束Bを審理官へ差し出し、入札ログのタイムスタンプを指でなぞった。

「なお、供給庁の入札三件が、王子殿下の私的倉庫を経由した業者に落ちています。公衆の利益はどちらにあるか——審理の参考にどうぞ」

 商人ギルドの代表が身じろぎした。傍聴席の空気が変わる。


 老侯は笑みを貼り直し、切り札を取り出した。

「それらは本案で議論すればよろしい。差止の段では形式がすべてだ。——辞令の決裁印が一つ欠けている。空決裁、あるいは不存在の押印。形式を満たさぬ辞令は、効力停止どころか無効である」

 傍聴席にため息が走る。紙束の間を、冷たい風が通った気がした。

(来た。予定通り。Cの石を置く)

 私は束Cの最上段、薄い一枚を取り上げる。

「外務長官の先んじ決裁メモです。電子押印の時刻証明が付いています。——紙に朱肉はありません。しかし、時間に朱が押されている」

「電子押印は代替にすぎぬ。実印が紙面上にない限り——」

「法務院通達第六二号、“実体優先”」私は反射で返す。「押印の“印影”はメディアを問わず、決裁意思の同一性と時刻の特定で足りる。写しは長官の署名と照合済み。——照合書はこれ」

 審理官が照合書を受け取り、拇印のタイプ数と電子署名の指紋値を確かめる。

「記録官、読み上げて」

 逐語録係がよどみなく読む。

「『照合結果——長官の署名筆跡・電子押印ハッシュ、一致。時刻証明は辞令起案の二刻前』」

 沈黙が、今度は私たちの味方になった。


 老侯はそれでも退かない。

「——であれば、なおのこと空決裁の疑いが強まる。長官は病欠だ。誰が押させたのか」

 私は頷いた。

「では、呼びましょう」

 広間の扉が開き、控えの間から駆け足の影が現れる。やせた青年、片耳に羽根ペン。

「外務省政務室の補佐官、ニコ。長官からの口述筆記を担当していました」

 青年は緊張で硬い声を絞った。

「長官は寝台で、意識は明瞭でした。“代理権限の先んじ決裁”を口述。私は政務端末で記録し、長官に読み上げ、本人の合意を得たのち電子押印。二刻前です」

 審理官の視線が老侯に移る。

「申立人、反対尋問を」

 老侯の杖先が、石床を甘く撫でた。

「政務端末の操作ログは?」

「ここに」私は二枚の紙を重ね、審理官へ渡す。「端末のユーザーID、アクセス時刻、IPの署名。さらに病室の入退室記録。看護官の証言もあります」

 看護官が一歩前に出て、短く頭を下げた。

「長官は昨夜、確かに“決裁は時間に押す”と仰いました」

 傍聴席に小さな笑いが灯る。緊張がほぐれ、しかし視線は一点に集まる。審理官の口元が、わずかに緩んだ。


「——了解した」審理官が木槌を軽く叩く。「差止仮申立ての要件について、回復困難性は否定的、必要性・緊急性は疑問、決裁の実体は一応認められる。ただし、本案審理に備え、決裁経過の更なる立証を命じる」

(つまり、停止解除が視野に入った)

 老侯は悔しさを押し隠し、手のひらを返すように礼をした。

「審理官、最後に一点だけ。王子殿下が新代理に補佐できぬなら、やはり国益が——」

「補佐は能力に応じて配する」

 静かな声が広間を渡った。王女殿下が席から立っていた。

「本件の本質は、適材適所。王子には王子の学ぶべき席を、現場に設ける。詳細は辞令の付帯文書に記す」

 老侯の表情から、初めて色が抜けた。傍聴席がざわつく。

(付帯文書——配置転換案が、もうできている)

 私は袖の内側に薄紙を感じた。殿下から預かった最後の一枚だ。出すのは、いまではない。


 審理官は結語を述べた。

「差止の結論は日没までに出す。——各当事者、補充書面を提出せよ」

 木槌が鳴る。息が戻る。

 広間を出た廊下で、私は短く拳を握った。

(損害は薄まり、必要性は崩れた。残りは“決裁経過”の連続性だ)

 窓外の掲示板に、夕陽が斜めに刺さる。官報の朱が、金色に発光して見えた。


 そのときだ。

「リディア様!」

 駆け寄ってきた逐語録係が、顔色を変えて紙片を差し出した。

「申立人側から新証拠の予告です。『第四の印は存在しない。——“影の決裁官”の関与を示す証言を提出する』と」

 影の、決裁官。私は小さく息を吸い、紙片を折りたたんだ。

(——影で押した印、ね。なら、こちらは光で証明する)

 日没まで、あと二刻。

 私は束Cの底、殿下から託された薄紙の感触を確かめた。付帯文書の端に走る、たった一行の走り書き。

『印は足りないなら、仕事で押す』

 それが、王女殿下のやり方だ。


本日の行政キーワード:回復困難性

金銭で代替できず、後から元に戻しにくい損害のこと。勤怠や職能由来の評価低下は、原則本人の責めに帰す状況として扱われやすい。次話、“影の決裁官”の正体と、決裁経過の連続性を証明する。

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