第10話 沈黙の檻
――音がない。
鉄の扉が閉まるとき、すべての音が外に置き去りにされたようだった。
冷たい壁、白い蛍光灯、時計の針の音すら聞こえない。
ここが、彼女の新しい世界。
刑務所。
番号で呼ばれ、食事の時間も寝る時間も決められている。
自由など、もうどこにもなかった。
けれど、美咲は不思議と――安堵していた。
「これで、もう誰も傷つけない」
そう思った瞬間だけ、胸の奥がほんの少し軽くなった。
隣の独房から、誰かが咳をした。
壁の向こうには、名前を失った女たちが暮らしている。
彼女たちは皆、何かを失い、何かを壊してきた。
夜になると、どこからかすすり泣きが聞こえる。
時々、それが自分の声なのか分からなくなる。
美咲は寝台の上で、壁を見つめた。
ひび割れた塗装の隙間に、小さな黒い影が見える。
――まるで、鏡の中の自分みたいだ。
昼休み。
食堂の片隅で、彼女はスープをすする。
誰も話しかけてこない。
視線だけが、冷たく、鋭く突き刺さる。
「家族を……」
小さな囁きが、背後で聞こえた。
振り返ると、すでに誰もいない。
美咲は手を止め、スプーンを落とした。
――やっぱり、ここでも同じ。
世界は、私を拒んでいる。
ある夜。
消灯後の闇の中で、美咲はふと起き上がった。
胸の奥に、懐かしい声がしたのだ。
『お姉ちゃん……』
その声は、柔らかくて、温かくて、
まるで遠い夢の中から届いたようだった。
「悠人……?」
涙が頬を伝った。
何度呼んでも返事はない。
だけど、彼がそこにいる気がしてならなかった。
刑務官には犯された。拒絶や痛みはなかった。何も感じなかった。私は外見だけが昔からの取り柄だった。その外見すら真っ赤に染めあげられた。私が私自身に。
翌朝。
担当の刑務官が書類を持ってきた。
「面会だ。母親さんからだ」
美咲はうなずいた。
でも、胸の奥がざわついていた。
母がまだ生きていると知り、安堵と同時に恐怖も湧いた。
面会室。
アクリル板の向こうで、母は痩せ細っていた。
頬はこけ、目の下には深い影。首には青いあざ。
「美咲……あなた……」
その声は震えていた。
言葉の途中で、母は手を伸ばした。
だが、ガラスがそれを遮る。
美咲は小さく微笑んだ。
「母さん……ごめんなさい」
母は首を振った。
「私の方こそ、ごめんね。あなたを……ちゃんと抱きしめてあげられなかった」
その瞬間、美咲の中で何かが音を立てて崩れた。
言葉も涙も、もう出てこなかった。
面会の後、刑務官が言った。
「お母さん、退院したばかりらしいよ。施設に移るそうだ」
美咲は黙ってうなずいた。
そして、独房に戻ると、静かに天井を見つめた。
「母さん、逃げてね……」
その言葉は、誰にも届かなかった。
数日後。
朝の巡回で、刑務官たちがざわついた。
新聞が差し入れられた。
その一面に――母の名が載っていた。
施設内での自殺。
美咲は何も言わなかった。
紙面を見つめるだけだった。
涙は出なかった。
代わりに、心の奥が静かに冷えていった。元から冷え切っていたのは知っていた。だが僅かに母とは認識できていなくても、会話をした人として情でも湧いたのだろう。
夜。
再び、あの声がした。
『これで、本当に一人だね』
『でも、もう怖くないでしょ?』
美咲は薄く笑った。
「うん。もう、怖くないよ」
壁の向こうの囁きが止み、
世界が、再び沈黙に包まれた。
鉄格子の外から、朝日が差し込む。
冷たい光の中、美咲は静かに立ち上がる。
窓の向こうの空は、真っ赤だった。
「これで、もう終わりにしよう」
あの言葉が、胸の中で再び響く。
光の中で、美咲は微笑んだ。
まるで、その瞬間だけは――自由だった。
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