第3話 優しい弟
静かだった。
まるでこの部屋だけ、音というものが存在しないように。
「悠人……」
美咲は、息を飲んだ。
部屋の中には、弟――悠人がいた。
窓の近くに座り、静かにノートを広げて何かを書いている。
小さな背中。ほっそりとした肩。
11歳。
たった11年しか生きていない子供。
けれど、背中には妙な重みがあった。
「……お姉ちゃん?」
声をかけると、悠人は振り返った。
目を見開いたまま、しばらく何も言わなかった。
その表情に驚きと、少しの警戒が混ざっている。
「ただいま」
美咲は無理に笑った。
悠人は、少しだけ笑ってみせた。
「……帰ってきちゃったんだ」
「……うん」
その言葉の裏にあるものが、美咲にはわからなかった。
しばらくの沈黙のあと、美咲は部屋に入った。
「元気にしてた?」
「うん」
短い返事。だが、明らかに様子がおかしい。
「学校は?」
「行ってるよ。普通に」
「友達は……?」
「いる」
会話が続かない。
昔はもっと、言葉が溢れていた。
無邪気で、笑顔で、甘えてきた悠人が、目の前にはいない。
「……寂しかったよ」
美咲が呟くと、悠人の手がぴくりと動いた。
「僕は……」
少し俯いて、彼は言った。
「お姉ちゃんがいなくなってから、ずっと、ここに閉じ込められてた気がした」
「……閉じ込められてた?」
「うん。兄さんと母さんと父さんと、僕だけの箱」
その言葉の中に、真っ黒な闇が潜んでいる気がした。
美咲はふと部屋の隅に目をやった。
本棚。
教科書の並んだデスク。
そして、クローゼット――
何かが、ある。
目に見えない「異物」が、この空間に存在している。
夜。
家族での夕食。
久しぶりの、4人分の食卓。
誠は、何も喋らなかった。
母は、やたらとテンションが高く、美咲に料理を勧め続けた。
「食べなさい、美咲。せっかく帰ってきたんだから」
「……ありがとう」
言いながら、美咲は母の皿に目をやる。
手が震えていた。
誠は、悠人を見ている。
じっと、舐めるような目で。
だが、誰もそれを口にしない。
悠人は、黙々とご飯を食べていた。
けれどその手は、ほんのわずかに震えている。
――この家は、やっぱりおかしい。
美咲の心に、じわじわと冷たい疑念が広がっていく。
深夜。
美咲は目を覚ました。
何かの気配。
階下から、何かを咀嚼するような音がする。
くちゃ、くちゃ、くちゃ――
心臓が跳ねた。
恐る恐る廊下に出て、階段を下りる。
音は、台所から聞こえていた。
「……誰?」
声をかけると、音が止まった。
静寂。
ゆっくりと扉を開けると、誠がいた。
冷蔵庫の扉は開きっぱなし。
その手には、何かの肉――赤黒い塊があった。
「……ああ、起きたのか」
誠は振り返り、笑った。
「何してるの」
「夜中に腹が減っただけさ」
その手の肉塊から、ポタリと血が落ちた。
「……それ、生のまま食べてるの?」
「別にいいだろ?」
誠はにやりと笑いながら、それを口に運んだ。
そして――くちゃくちゃと咀嚼した。
美咲は、ぞっとした。
「それ、何の肉?」
「……養殖された肉。」
誠は冷蔵庫の扉を閉めた。
視線が鋭く、美咲の首筋に何かが這うようだった。
「悠人、最近元気がないな」
「……あの子に、何かした?」
「さあ。お前こそ、また壊れるなよ」
その一言に、美咲の胸の奥で何かが裂けた。
部屋に戻った美咲は、冷たい汗をかいていた。
何かが、迫ってきている。
鏡を見る。
自分の顔が、別人のように見えた。
「……もう、逃げられないのかな」
そのとき、頭の奥に声が響いた。
『まだ守れるよ、あの子だけは』
幻聴。
それとも――もうひとりの自分。
美咲は、口元を押さえた。
――守りたい。
でも、私は……
壊れていく。
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