第3話 圧

――〈…わたしは姉を…〉


 重さから始める。


 綾は作業台の下から、木口が丸く磨り減ったプレス板を引き出し、端に指をかけて持ち上げた。抑えた厚みの中に、数十年の手が蓄えた艶がある。重石は二つ。どちらを先に置くかで、紙の記憶の仕方が変わる。順番は、言葉より先に倫理だ。


 温湿度計は二十三度、四十八パーセント。昨夜の霧の余韻はもうない。乾きすぎてはいない。乾きすぎない、が一番難しい。難しさは、重さで補えるときもある。


 保護紙の白をめくると、昨日の白より、わずかに鈍い白が現れる。鈍さは、湿りの名残ではなく、面が落ち着いた合図だ。果歩が息を薄くして覗きこむ。覗いた視線が紙に当たらない高さに、綾はランプの角度を合わせる。


 「最小介入、可逆性、記録。」


 いつもの三語を置く。置いた場所に、重石を重ねていくみたいに、声が沈む。果歩が復唱する。復唱の声の端に、少しだけ“圧”が乗っている。昨夜の“霧”が、声の底で硬さに変わったのだ。


 まずは吸い取り紙を敷く。綾は束を手に取り、耳で枚数を確かめる。紙は数えるとき、耳が一番正確だ。端を弾く乾いた小音が、枚の境目を教える。


 「……一枚、多い。」


 果歩が先に気づいた。昨夜“気がして”に留めた違和が、今朝は事実として指に触れる。綾は束を少し持ち上げ、重みで頷く。


 「今日は、その“余分”を使う。過剰を防ぐための、余白として。」


 写本の頁を、台紙の上にそっと寝かせ、吸い取り紙を一枚。和紙を一枚。重さを受け継ぐ層を順に作る。層は数えるものではなく、置くものだ。置くたび、机の面が低くなる。低くなるたび、呼吸が静まる。


 「仮止め、する?」


 果歩が問う。裏打ちの仮止め、小麦澱粉糊か、薄い膠か。綾は一瞬だけ迷い、首を横に振る。


 「まだ。面の機嫌を見る。“押し”で整うかを先に。」


 押す。押してはいけない、と思いながら押す。押すことを、重さに任せる。任せすぎない、位置で止める。


 重石を置く前に、綾は果歩の手に視線を落とした。刷毛でもピンセットでもない、空の手。その甲の骨の線に、昨夜の霧の冷たさが少し残っている。残りは、いい予感だ。冷たさの記憶があると、圧が過ぎない。


 「置くわよ。」

 「はい。」


 重石をひとつ、中央やや綴じ側に寄せて落とす。落とす、と言っても、落ちる前に止める。止めた気配だけを紙に残す。木と金属が机に言葉にならない音を一つだけ残す。


 「時間、計る?」

 「呼吸で。」


 綾は言い、胸の内で、八拍を数えた。果歩が無意識に合いそうになる呼吸を、彼女は見えない掌でそっと押し戻す。合奏は、まだ早い。合奏は、圧が面から音へ移る夜に取っておく。


 八拍ののち、重石を滑らせて位置を変える。面の“谷”を探る。谷に重さが降り、空気が吐き出される。吐息のような微音が、板の縁から逃げる。


 綾は重石の持ち手に指をかけ、ほんのわずかに捻った。捻る角度で、圧の質が変わる。垂直の重さと、斜めの重さ。斜めの重さは、紙を無理に従わせない。従わない余地を残したまま、整える。整えられた面は、よく見ると、自由でいる。


 「——綾さん、その、わたしの手。」


 果歩がささやいた。綾は振り向かない。重石の上から、空の手で果歩の手の上に手を“置く”。触れないまま置く。掌の影だけが、果歩の指の動きを、“導く”。指の第一関節が、影に合わせて、半度だけ下がる。半度で、圧は変わる。変わることを、果歩の皮膚が驚く。驚きが、波のように上って、喉の手前で止まる。


 「今の。」

 「うん。」

 「……触れてませんよね。」

 「触れてない。触れないほうが、重い時がある。」


 重い、という語が、机の下に落ちる。落ちて、残る。残った重さは、目に見えないが、指の裏が覚える。


 重石を上げる。吸い取り紙を一枚抜き、乾いた紙を一枚足す。水の逃げ場を入れ替える。水は道を覚える。覚えた道を、あえて混乱させて、均す。均しながら、面に“朗らかさ”が生まれる。朗らかさと言ってしまうと甘い。だから今は、静けさ、と言い換える。


 「下、見て。」


 綾の声に、果歩が斜めから覗きこむ。昨日、霧の向こうに立っていた縦画が、面の落ち着きとともに、淡い陰影として“残って”いる。線は濃くはならない。けれど、存在の解像度が上がる。見ようとしなくても、目が拾う。


 「……“わたしは姉を——”の骨格、の“わたしは”が、いる。」


 果歩は言って、息を止める。言葉が紙に触れないように。綾は頷くかわりに、吸い取り紙の端を揃えた。揃える音が、肯定の代わりだ。


 机端のスマートフォンが振動する。綾が視線を滑らせ、画面の発光を手の甲で隠す。発光は紙に無礼だ。メッセージの断片が視界の端に入る。「展示」「日程」「前倒し」。前倒しという二字が、重石より重いと、綾は思う。


 「研究者から。スケジュール、半月前倒しの可能性。」

 「半月。」


 果歩の声が小さく沈む。沈んだ声が、紙へ届かない高さに留まる。綾はすぐに返信しない。返信は、重石を置くことに似る。場所と重さを決めないまま置くと、面が歪む。


 「記録、どうしますか。」


 果歩が問う。綾は写本の上にかざした手を少しだけ上げる。手の影が消える。消えたところで、言葉を置く。


 「“線”としての画像は撮っておく。けれど、“読みに変換”しない角度で。」

 「読みに変換しない角度。」

 「斜め過ぎず、正面過ぎず。目が“読む気”を起こす前に止める。」


 綾はカメラを台に据え、測距と露出を静かに合わせる。シャッターが落ちる音は、重石を置くのと似ている。過不足のない力で、ひとつ。画面に現れた白は、白のまま。線は線のまま。文字“らしさ”の手前で止まっている。


 送られてきたスケジュール資料に、展示台の寸法が添えられている。寸法は、現場の重さに直結する。ガラスの蓋の厚み。照明の色温度。来場者導線の矢印。矢印は、紙の上にも見えない影を落とす。影が落ちる前に、面を安定させる必要がある。


 「もう一巡、圧を。」


 綾は重石を持ち直し、位置を半寸ずらす。半寸で、紙の表情が変わる。表情。言い換える。面相。面相は、作るものではなく、出てくるものだ。出てきたものを、留めるだけ。


 「手、貸して。」

 「はい。」


 果歩が重石の反対側に手を添える。添えた手の甲の上に、綾の影が乗る。乗った影が、圧の方向を指す。指された方向へ、果歩は力をほんの少し流す。流しすぎない。止めすぎない。止めて、流す。その切り替えに、呼吸が付いてくる。


 八拍。重石を外す。吸い取り紙を交換。紙の端、綴じ側のわずかな反りが、素直に寝る。面の音が静まる。静まった面の下で、昨日の「姉」の縦画が、今日の「わたしは」の骨格と、遠いところで合図する。


 果歩の喉が、わずかに鳴る。鳴りを飲む。飲んだ音が、胃のほうへ落ちていく。落ちて、残る。残った音の場所を、身体が覚える。


 「……綾さん。」

 「なに。」

 「“合奏”、って、いつ始めますか。」

 「面が歌い始めたら。まだ前奏。」

 「前奏。」

 「長いほど、いい前奏もある。」


 カメラの画面に、撮ったばかりの画像が淡く光る。綾は一枚だけ選んで、研究者へ送る。添える言葉は短い。「面の安定を優先」「読解は時期尚早」。送信。送るのも、圧だ。圧を外へ流して、ここに静けさを残す。


 「裏打ちは?」


 果歩がもう一度問う。綾は棚から極薄の和紙を取りだし、光に透かす。繊維の長短が夜空の星図みたいに散る。散る、という語を飲み込み、配列、と言い換える。配列を見れば、どの方向が面を支えるか、和紙が教える。


 「仮止めでなく、“仮を検討”に留める。今日は圧だけで行けるところまで。」

 「はい。」

 「明日は、光。」


 計画の言葉が、工房の空気の密度を変える。未来の作業は、現在の面を硬くしすぎることがある。硬くなりすぎる前に、重さをどかす。どかして、面に呼気を戻す。


 重石を最後に外したとき、机の板が微かに伸びをした。固い素材の伸びは、音というより、気配の調整だ。写本の白は、朝の白ではなく、夜の白に近づく。夜の白は、音を遠くへ運ぶ。


 綾は吸い取り紙の端を集め、枚数を数える。今度は記録と一致する。余分の一枚は、使ってしまった。使って、正しかったかは、明日の面が答える。


 「……指、見せて。」


 果歩が手のひらを返す。綾が距離を保ったまま、目で触れる。第一関節の下、小さなくぼみに、重さの名残が座っている。座って、動かない。動かないまま、熱だけが少し残る。


 「痛い?」

 「痛くはないです。熱いだけ。」

 「それは、覚えている、ということ。」

 「覚えている。」


 復唱して、果歩が指を握る。握った熱が、掌の中で形を持とうとして、持たない。持たないままでいい。持たないままで、残る。


 保護紙を戻し、四辺を指の背でならす。ならした背の骨が、もう少し太くなった気がする。気がする、を、今は信じていい。測れない成長は、たいてい、圧のあとに来る。


 「今日はここまで。」


 綾はノートに短く書く。「圧:八拍×三巡/交換三回/画像一」。文字の線は細い。細いが、迷いはない。迷いがない文字は、紙にやさしい。


 スマートフォンがもう一度震える。研究者からの短い返信。


「画像確認/進捗良好/次回、光の条件共有希望」。


綾は「条件、こちらで決める」とは書かない。書かないことも、圧の一種だ。かわりに「条件整い次第、共有」で返す。


 灯りを落とす前に、綾はランプの角度をほんのわずかに戻した。斜めの影が長く伸び、机の木目が川のように流れる。川底に沈んだ石みたいに、今日の圧が、面の奥に座る。座って、動かない。動かないまま、明日を待つ。


 果歩は道具を片づけながら、ふと自分の手の甲に目を落とした。触れていないはずの綾の掌の“影”の重さが、まだそこにいる。影のくせに、軽くない。軽くないのに、痛くない。痛くないのに、忘れない。


 扉に鍵がかかる。金属の音がひとつ、路地の空気に小さく跳ねる。跳ねて、消えない。消えない音は、今日の圧の分だけ、低くなる。


 机上に、重石の輪郭が、わずかな熱として——残る。

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