第7話 決戦前夜

定期テストを数日後に控えた週末。

机にかじりつき、英文法の参考書と格闘していた。机の上には教科書、ノート、プリントが散乱し、まるで嵐が過ぎ去った後のようだ。窓の外には、日曜日の穏やかな昼下がり、キラキラと光る境港の海が見えているが、今の俺にはその景色を楽しむ余裕なんて微塵もない。

(くそ、全然頭に入ってこねえ…)

焦りばかりが募る。あの加奈との勝負。「負けた方が言うことを聞く」という、あまりにも無謀な賭け。合計点で勝てる見込みは正直薄いが、それでも、あいつに負けっぱなしは絶対に嫌だ。それに、もし勝てたら…。いや、まずは目の前の課題をクリアしないと。俺はため息をつき、再び参考書に視線を落とした。

週明けの月曜日、教室はテスト前の独特な緊張感と、ある種の諦めムードが混在していた。休み時間もスマホをいじる奴は少なく、代わりに参考書やノートを開いている姿が目立つ。

「だめだ…もう無理、俺は諦めた…」

遼が机に突っ伏して、燃え尽きたように呟いている。

「大丈夫だって、まだ時間はある」

謙介が慰めるが、遼は「一夜漬けに賭ける…」と力なく返すだけだ。

快斗はといえば、「テストさえ終われば…終われば徹夜で新作ゲームができるんだ…」とブツブツ呟きながら、単語帳を睨みつけている。ある意味、一番モチベーションが高いのかもしれない。

唯一、幸誠だけはいつもと変わらず、涼しい顔で静かに本を読んでいた。…あれ、もしかして勉強関連の本か? いや、普通に小説っぽいな。こいつ、本当に余裕なんだな…。

「恒成は進んでるか? 俺は昨日、紗希に数学教えてもらったから、二次関数は完璧だぜ!」

謙介が少し得意げに言ってくる。その顔が若干ニヤけているのは、勉強を教えてもらったこと自体が嬉しかったからだろう。

「…まあ、ぼちぼちだ」

俺は曖昧に答える。俺だって加奈に教えてもらってはいるが、あんな甘い雰囲気とは程遠い。むしろスパルタ指導だ。

「雪村くん。昨日はちゃんと復習したんでしょうね?」

噂をすれば、加奈が俺の席にやってきて、まるで先生みたいに聞いてくる。相変わらずのプレッシャーだ。

「し、したよ! ばっちりだ! お前こそ、油断してると足元すくわれることになるぞ!」

俺は少し強気になって言い返してみた。いつまでもやられっぱなしじゃいられない。

加奈は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにいつもの余裕の笑みを浮かべた。

「あははっ ずいぶん威勢がいいじゃない。でも、私に勝とうなんて、100年早いじゃないかなー?」

ふふん、と鼻を鳴らす。悔しいけど、自信満々なその姿は様になっていた。

「…まあ、頑張りは認めてあげなくもないけどねー」

最後に付け加えられたその一言は、ほんの少しだけ、本当に少しだけ、俺のやる気を刺激した。…気がした。

その日の放課後も、俺たちは図書室のいつもの席に向かった。テスト前ということもあり、室内は普段以上に静まり返っている。ペンを走らせる音だけが、規則的に響いていた。

意外なことに、今日の加奈はほとんどからかってこなかった。真剣な表情で自分のノートに向かい、時折、長いまつ毛を伏せて考え込んでいる。その集中した横顔は、普段のからかい上手の姿とは別人のようで、俺は思わず見とれそうになってしまった。

(…こうしてると、本当に、普通のクラスメイトみたいだな…いやいや!普通の!普通のクラスメイトだろ)

静かな時間が流れる。窓の外では、ゆっくりと太陽が傾き、海がオレンジ色に染まり始めていた。この穏やかな時間が、なんだか心地いい。

…と思った矢先だった。

不意に加奈がペンを置き、こちらに向き直った。そして、内緒話でもするように、少し声を潜めて尋ねてきた。

「ねえ、雪村くん」

「…なんだ?」

「もし、万が一、億が一、雪村くんがこの勝負に勝ったらさ、私に何をお願いするつもりー?」

その質問は、あまりにも不意打ちだった。勝った時のことなんて、正直、全く考えていなかった。

「えっ!? そ、それは…! 勝ってから考える!」

動揺を隠せず、しどろもどろに答える。何を考えてるんだ、こいつは!

加奈は俺の反応を見て、楽しそうにくすくす笑った。

「ふふ、そう? 私はもう、ちゃーんと決めてるんだけどなー。雪村くんにしてもらうこと」

その言葉と、意味深な笑顔。俺の頭の中で、とんでもない妄想が駆け巡る。一体、何をさせられるんだ!? せっかく集中していた思考が完全に吹き飛んだ。やっぱり、こいつには敵わないのか…!

テスト前日。教室には、最後の追い込みに励む生徒たちの、悲壮感すら漂う空気が満ちていた。俺も緊張と不安で胸がいっぱいだった。もうやるしかない。

帰り際、廊下で加奈とすれ違った。彼女は俺の隣を通り過ぎる瞬間、足を止め、挑戦的な瞳で囁いた。

「明日は、負けないでよね。…つまんないから」

その言葉に、俺も闘志を燃やして言い返す。

「お前もな! 絶対に、勝つ!」

いよいよ明日から、決戦の火蓋が切られる。果たして、勝負の行方は? そして、もし負けてしまったら、俺は加奈に何をさせられるのか…? 不安と、ほんの少しの期待が入り混じった複雑な気持ちを胸に、俺は決戦の朝を迎える準備をするのだった。

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