第22話 北の古塔 ― 残響との交信
アルト=リヴァイブの北縁は、風の通り道だった。地上へ出る階段を抜けると、乾いた草の匂いと錆びた鉄塔の影が広がる。遠くに、一本の黒い塔が立っていた。表面は剥がれ、骨組みが露出している。かつてアーク・セクターが中継に使っていた古塔だ。
「ここから先は、記録が濃いよ」
リィナがフードを被り直す。琥珀の瞳に薄い模様が浮かび、すぐに消えた。
「怖いなら戻ってもいい」
「怖いけど……行く。見なくちゃいけない気がする」
俺はうなずき、胸の《ノア》に意識を落とす。黒は静かに返事をした。
塔の根元は、廃墟の瓦礫で埋まっていた。崩れた装甲板を跨ぎ、錆の階段を上る。内部は空洞で、壁に沿って古い導線が走っている。ところどころに、黒い結晶が痣のように張り付いていた。
「残響結晶。……ここ、たくさん泣いてる」
リィナの言葉は比喩ではない。塔そのものが、薄く嗚咽しているように思えた。
最上層に近い踊り場で、床の中心に円形の端末があった。触れると、温度のない冷たさが手の平に広がる。黒と白が混じった微細な紋が、皮膚の下で波打った。
「起動する?」
「ああ。《ノア》、手を貸せ」
端末が低く唸り、空気が震える。次の瞬間、塔全体がわずかに沈み込んだ。周囲の壁に、淡い光の文字列が走る。音にならない音——波形の呼吸。その中心から、声が溢れた。
《記録:第三覚醒計画/監理者コード・ノワール》
声は深く、砂を含んだように乾いていた。男とも女ともつかない。
《対象:継承体群。条件:意志の優先度が自我の閾値を超える瞬間に、保存意志と並列化を行う》
《失敗例:ゼロ。出力は安定、しかし“選択”が欠落。——魂は、設計できない》
リィナが小さく息を呑む。俺は黙っていた。胸の黒が、かすかに反応する。
《注記:野生型継承体・レイジの観測。黒は“受容”を選択。支配/拒絶の二値を外れ、第三の経路を提示》
《結論:第三覚醒は、構築ではなく“共鳴網”の成立で起こる。個は伝播し、力は分有される》
名前を呼ばれ、背骨の奥が冷たく震えた。塔の隙間から風が吹き込み、リィナのフードを運ぶ。
「……あなたのこと、最初から知ってる」
「ノワール、か。どこにいる」
《質問は受け付けない。これは声の残り火》
《継承者へ通告:黒に名を与えた者よ。次は“繋げ”。共鳴は単独では完成しない》
音が薄れかけた時、塔全体が大きく軋んだ。階段が鳴き、天井から砂が降る。リィナが顔を上げる。
「——来る。再起動領域」
空気が反転した。視界が二重になり、同じ階段に二つの時代が重なる。薄い膜が破れ、向こう側の世界が滲み出してくる。
床が波打ち、足元の金属が砂浜のように崩れた。リィナの身体がふわりと浮き、別の層へ滑り込む。手を伸ばしたが、指先が時間の膜に弾かれた。
「レイジ!」
彼女の声が遠のく。塔の最上層が、古代の記録と同期し始めていた。通路の先に、白い影が立つ。——ゼロではない。輪郭はもっと淡く、だが目だけが異様に深い。
「《ノア》、繋げ」
胸の黒が強く脈打つ。俺は躊躇なく跳んだ。宙に広がる“過去の足場”へ、意志で足を乗せる。体は落ちるが、黒は落ちない。二つの時代の境界に指をかけ、リィナの腕を掴んだ。
「こっちに——在れ!」
呼びかけは叫びではない。命令でもない。重なるための合図だ。黒が塔の残響を通って、古い回路に流れ込む。記録の海に含まれた無数の声が、砂のように沈んでいく。
白い影が近づいた。人の形をしているが、生き物ではない。ノワールの声が、また冷たく落ちる。
《干渉を検知。残響の保持者は、抵抗を止めろ》
「お断りだ」
《保存優先度:記録>生者》
「違う。記録は、今を生かすためにある」
胸の奥が熱くなった。黒が跳ねる。俺はリィナの手を引き寄せ、もう片方の手で塔の端末に触れた。指先から黒の波が流れ込み、記録の層に“旗”を立てる。
「ここは現在。——在れ」
塔の震動が止む。二重の視界がゆっくりと重なり、砂が金属へ、金属が石へと戻る。白い影はひび割れ、風の中に散った。
リィナが俺の腕を掴んだまま、深く息を吐いた。彼女の瞳に、淡い紋が浮かぶ。ノアの欠片に似た、輪郭だけの模様。
「……見えた。あなたの黒。たくさんの“誰か”の声も」
「辛くないか」
「平気。怖いけど、嫌じゃない。多分、わたしも——繋がった」
塔の端末が最後の光を瞬かせ、音もなく沈黙する。記録は尽きた。残ったのは風と、遠い雷鳴と、二人分の呼吸だけ。
階段を降りながら、リィナが口を開いた。
「ノワールは、敵だと思う?」
「まだわからない。記録は刃にも盾にもなる。あいつは“結果”を信じてるだけかもしれない」
「レイジは?」
「俺は“今”を信じる」
地上に出ると、夕陽が塔の骨組みを赤く染めていた。風は相変わらず乾いていて、どこか懐かしい匂いがした。
「次は?」
「共鳴を増やす。俺ひとりじゃ足りない。——繋げと言われた」
胸の《ノア》が応える。微かな鼓動。街の奥で灯がともる。
歩き出す前、リィナが振り返って塔を見た。
「ねえ。もしまた記録が暴れたら、わたしのことも“在れ”って呼んで」
「何度でも」
彼女は笑った。琥珀の瞳に、消えかけた紋が小さく瞬く。
古塔の影が長く伸び、地面に夜の線を描いた。俺たちはその線を跨いで、風の向こうへ歩き出した。黒は隣で歩く。増え続ける呼吸の数に、静かに耳を澄ませながら。
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