第10話 ギルド上層部の思惑、交錯する刃
朝の訓練場に、乾いた木剣の音が響く。俺は一人で型を流し、呼吸を整えていた。視線を感じる。今日に限ったことではない。ここ数日、ギルドの隅々に“目”がある。
屋根の梁、観覧席の影、窓の外。直接見つめはしないが、確かに“測っている”気配。黒い魔石がポケットの中で微かに脈を打つたび、視線もまた強まるようだった。
「神谷」
背後で声がした。振り返ると、タツヤが立っていた。いつもの軽口はない。きっちりと締めた革ベルト、磨かれた刃。今日の彼は戦闘用の装備だった。
「……任務、らしい」
「俺の?」
「正確には、お前の“同行監視”。上からの命令だ」
短い沈黙が落ちる。冗談なら笑い飛ばせた。だがタツヤの目は、本気だった。
「お前が見張るのか、俺を」
「俺だって、笑えねえよ」タツヤは苦い顔をした。「だが断れない。黒い魔石の件で、上層がピリピリしてる。お前が制御を失ったら止めろ、ってさ」
「止められると思うか?」
「……止めるさ。友達だからな」
胸の奥がわずかに軋んだ。友情と職務がぶつかる音。十年前、いつも隣で笑っていた男が、今は俺の“監視役”だ。
「気にするな。俺は俺のやり方で進む」
「それが怖いんだよ、神谷」タツヤは目を伏せ、低く言った。「最近のお前は、速すぎる。どこへ行くのか、俺にも見えない」
言葉は刺さったが、痛みにはならない。代わりに、黒い魔石が一度だけ強く脈動した。
◇
同じ頃、ギルド支部の最上階。薄暗い応接室に、支部長と特別研究部のルシエルが向かい合っていた。窓は厚いカーテンで閉ざされ、机上には黒い革のファイルが整然と並ぶ。
「観測は続ける。だが、逸脱は許可しない」支部長が低く言う。「君たち研究部は、時に境界線を踏み越える」
「境界線を描くのは、常に“旧いルール”です」ルシエルは微笑を崩さない。「黒き魔石——オブシディア・コアは、国家レベルの資産になり得ます。宿主を正しく制御すれば、軍事的にも——」
「兵器化の前に、人間だ」支部長の目が細くなる。「神谷は探索者だ。駒ではない」
「もちろん。ですからこそ、観測が必要なのです」ルシエルは指先でペンを転がし、淡々と告げた。「“第二覚醒”が来る。彼が自らの意思で扉を開けるのか、それとも魔石に押し開けられるのか。——それを見極めるのが、我々の役目です」
支部長は黙り、窓の向こうに視線を投げた。見えない街の喧噪が、遠い海鳴りのように耳に満ちる。
「……線を越えるな、ルシエル」
「境界線が動けば、我々も動きます」ルシエルは立ち上がり、微笑を深めた。「始まったのですから」
◇
昼の訓練場はさらに人が増えていた。噂は速い。“Fランクの再査定男”は、一挙手一投足で酒の肴になるらしい。タツヤは端で腕を組み、無言で俺の動きを目で追う。
「模擬戦をしよう」
彼が言った。小さな声だったが、観覧席の空気が揺れるのがわかった。
「任務でなく、俺のわがままだ」タツヤは続けた。「確かめておきたい。——お前は、本当に神谷レイジか?」
逃げる理由はなかった。俺は木剣を取り、向かい合う。いつも通りの構え。だが、視界の端が違う。観客のざわめき、風の流れ、タツヤの体重移動——すべてが遅く見える。第一次覚醒の効果だ。
合図と同時に、タツヤが踏み込んだ。素直で速い突き。十年前から知っている癖が、今もわずかに残っている。俺は半身で流し、木剣の腹で受け、肩で押し返す。
「ちっ」
舌打ち。二合、三合。タツヤの剣は重く、正確だ。だが俺の体はそれを“知っている”。昔の飲み屋で、彼が語った理屈まで覚えている。——相手の呼吸を奪え。足を止めさせろ。
四合目、タツヤが変化をつけた。踏み込みの直前、呼吸を一拍ズラす。俺の反応を遅らせるためのフェイント。さすがだ。だが——遅い。
俺は足を払う動きを誘い、逆に内側へ踏み込んだ。木剣の先端が喉元に止まる。
「一本」
観覧席がざわめき、タツヤが顔をしかめて笑う。「……強くなったな」
「まだ途中だ」
「なら、もう一度」
二度目の合。タツヤは読み合いを捨て、力で押す。木剣が重くのしかかり、腕が軋む。心拍が跳ねた瞬間、ポケットの中の黒い魔石が応えるように脈打つ。
——来る。
視界の彩度が上がる。音が遠のき、タツヤの動きだけが鮮明になる。心臓が一打、深く沈み、次の瞬間に跳ね上がる。体の芯が熱で満たされ、皮膚の下で何かが目覚めかけた。
「神谷!」
タツヤの叫びが遠い。俺は木剣を外し、懐に潜る。柄頭で胸骨を叩き、膝を抜く。タツヤの体勢が崩れ、畳に沈む寸前——俺は間合いを外し、刃先を止めた。
静寂。
ほんの一瞬、空気が凍った。次の瞬間、俺のポケットから黒い霧が漏れた。観客がざわめき、誰かが席を立つ音。霧は床に触れて薄く拡がり、氷のような寒気を残して消えた。
「……制御しろ」
俺自身に向けた命令だった。深く呼吸し、胸の熱と黒い脈動を押し戻す。第二覚醒の扉が、軋みを上げて閉じる感覚。タツヤが息を吐き、膝に手をついた。
「勝ちだ。お前の」
「勝ち負けじゃない」俺は首を振る。「確かめただけだ。俺がどこまで行けるか」
「そして、どこで止まれるか」タツヤは苦笑した。「……わかった。俺は“見張る”。友達として」
その言葉で、胸の緊張が一つ解けた。観覧席の一角でミナが安堵の笑みを浮かべ、控室の陰で支部長が静かに腕を組む。その背後、薄闇の廊下に立つルシエルが、興味深そうにこちらを見ていた。
◇
夕刻。訓練場の人波が引いた頃、支部長に呼び止められた。
「さっきの黒い霧——あれは危険だ」
「わかっています」
「ならば、制御のための訓練をする。自律的な魔力循環の構築、遮断の手順、暴走傾向の兆候把握。——タツヤ、お前も付き合え」
「了解です」
短いブリーフィングが終わると、廊下の角でルシエルが待っていた。相変わらずの微笑。目だけが笑っていない。
「素晴らしい午後でしたね、神谷さん。観客も、数字も、たいへん興味深い」
「俺は見世物じゃない」
「観測は敬意です。——そう解釈していただければ」
彼は懐から封筒を取り出し、差し出す。中には見慣れない紋章が押された通行証と、上層ギルドの研究施設の地図。
「招待状です。制御の訓練に、我々の設備をどうぞ。あなたが怖れている“線”を、越えずに済むように」
「善意か?」
「打算と善意は、よく似ています」ルシエルは肩を竦めた。「ただ、あなたがここで止まれば、別の誰かが“兵器”になるだけです」
吐き捨てるような言い方だった。彼なりの倫理が、どこかで軋んでいる。
「考えておきます」
「ぜひ」
ルシエルが去る。タツヤが隣で小さく嘆息した。
「……あいつ、嫌いじゃないが信用できねえ」
「同感だ」
夜風が吹き込む。ポケットの黒い魔石が、強く一度だけ脈動した。遠くで鐘が鳴る。街の灯りが滲む。第二覚醒の扉は、近い。だが俺は、まだ開けない。開けるとしても——俺の意思で。
訓練場の中央に立ち、目を閉じる。吸って、吐く。足裏で床の冷たさを感じ、胸の熱を静かに整える。
「制御だ」
呟きが、闇に溶けた。明日もまた、視線の中で剣を振るう。監視の刃と、友情の刃と、そして俺自身の刃が、同じ場所で交錯する。
——始まった。境界線は、俺が引く。
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