第7話 帰還、揺らぐギルドと黒の魔石

夜風は冷たかったが、街の灯りは妙にあたたかかった。低層ダンジョンの入口から、俺はひとり石畳を踏みしめる。十年分の疲労を背負った体のはずなのに、歩幅は自然と広い。胸の奥で脈打つ黒い魔石が、心臓と速度を合わせていた。

 ギルドの自動扉が開く。いつものざわめき、酒と汗と皮革の匂い。——そのはずだった。だが、今日は視線が刺さる。俺を見た受付係が短く息を呑んだのがわかった。

「神谷さん……? 戻ったんですね。えっと、その傷……」

「ただの擦り傷。報告と、換金をお願い」

 受付カウンターに短剣と布袋を置く。袋の口を開くと、淡い光の魔石がコロコロと転がった。周囲の探索者が「へえ」「珍しく稼いだじゃん」と軽口を飛ばす。俺は肩を竦めて笑ってみせ、もうひとつの袋を静かに取り出した。こちらは小さい。だが、重さが違う。

 受付嬢——ミナが首をかしげる。「そちらも魔石ですか?」

「鑑定に回してくれ」

 袋の口をわずかに開く。漆黒の光がこぼれ、カウンター越しに空気が冷えた。ミナの目が大きくなる。近くにいた検査員が「待て」と身を乗り出し、慌てて鉛のトレイを持ってくる。

「低層で、その色は……おかしい。触らせてくれ」

 検査員は手袋をはめ、黒い魔石をそっと摘み上げる。闇を吸い込むような艶が、ギルドの天井灯をゆらりと歪ませた。ざわめきが止まり、視線が一点に集中する。

「記録にない。比重も反応も、通常の上位魔石と一致しない……。どこで手に入れた?」

「《雑木林の穴》の低層、隠し通路の奥だ。部屋には古い刻印があった。三つの円、中央を貫く線」

 ミナが息を呑み、検査員が顔を上げる。彼は躊躇のない手つきでインカムを押し、低い声で言った。

「上に報告。黒等級、仮指定。繰り返す——黒等級、仮指定だ」

 フロアの空気が変わった。テーブルの音が止み、誰かの笑い声が途中で途切れる。俺は無言で立ち、カウンターの横で待つ。十年前から慣れきった、あの居心地の悪さとは違う沈黙だった。見下す視線ではない。測る視線だ。

「神谷、だよな」

 懐かしい声がした。同期組のタツヤだ。いつもは俺を見つけると「草むしりの勇者さま」と笑う男が、今日は笑わなかった。俺の肩から爪先まで、ゆっくりと目を往復する。

「……雰囲気、変わったな。前はもっと、影が薄かった」

「そうか?」

「そうだ。——それと、その魔力の匂い。今までの神谷じゃない」

 言葉に詰まる。匂い、という表現が妙に的確で、否定できなかった。第一次覚醒のせいなのか、黒い魔石のせいなのか、俺自身の変化なのか。おそらく全部だ。

「失礼します、神谷レイジさん。二階の会議室へ」

 黒服の事務員が二人、階段の前で待っていた。いつもは視界にすら入らない人種だ。ミナが不安そうにこちらを見て、小さく頷いた。——大丈夫、と目で返す。心臓は落ち着いていた。むしろ、少しだけ期待している。

 二階は静かで、空気が新しい紙とインクの匂いを含んでいる。通された会議室には、ギルド支部長と、白衣の研究員風の男がいた。支部長は年の割に目が鋭い。白衣の男は黒縁眼鏡の奥で瞳が忙しく動いていた。

「入れ。座れ」支部長が手で示す。「報告は受けた。低層で通常外の魔石、黒等級仮指定。——経路を詳しく話せ」

「ソロで潜り、隠し通路を見つけた。石扉の奥に部屋があり、台座に透明な結晶があった。それに触れたら……覚醒した。第一次覚醒だ。その後、獣鬼と呼ぶべき異常個体を討伐。胸部から、その黒い魔石が出た」

 白衣が身を乗り出す。「覚醒、だと? 君のランクはFだよな」

「十年、Fだ。だが今は違う。……少なくとも、俺自身がそう感じている」

 支部長が軽く頷くと、白衣は嬉々としてタブレットを操作し始めた。机の上に簡易測定器が置かれ、黒い魔石がトレイごとそっと載せられる。針が震え、画面の数値が跳ねる。

「反応値が高すぎる。属性は……“無”。いや、吸収? 同化? 魔力循環を歪ませる……」

「結論は?」支部長が短く促す。

「未知、です。ただし——」

 白衣はメガネを押し上げ、俺を見た。「君との同調率が見たことのない値を示している。普通の探索者が触れれば拒絶反応が出るはずだ。なのに君は平気だ。むしろ、魔石が君に合わせている……そんなふうに見える」

 俺の掌が、じんわりと熱を帯びる。刻まれた三つの円の紋様が、袖の下で淡く脈動した。第二覚醒の扉が奥で軋む音が、また聞こえた気がする。

「質問を変える、神谷」支部長の声音が少しだけ柔らかくなる。「この先も——ソロで行く気か?」

「必要なら組む。だが、当分は一人で確かめたい。……俺が何者になれるのか」

 支部長は目を細めた。次いで、短く笑った。「いいだろう。——ただし、正式な査定を行う。体力、魔力量、反応速度、実戦。近々、再査定の場を設ける」

「再査定……」

「Fのままにしておくには、材料が多すぎる」

 胸の奥が熱くなる。十年、諦めていた言葉だ。タツヤの顔、ミナの顔、笑う新人たちの顔が、脳裏に断片で浮かんでは消えた。

 会議室を出ると、廊下の窓からフロアが見下ろせる。視線が集まっていた。軽口はない。品定めする目と、興味の目と、恐れる目。そこにミナの小さな笑顔が混ざっているのを見つけて、俺は息を吐いた。

 ふと、さらに上の階の影が動いた。見上げると、黒いスーツの男女が細い笑みを交わしている。白い手袋、端整な髪、ギルドの紋章。上層部の、もっと上。——俺は視線を外し、階段を下りた。

 カウンターに戻ると、タツヤが腕を組んで待っていた。「再査定、やるらしいな」

「ああ」

「……負けんなよ」

 短い言葉に肩の力が抜ける。彼はいつもの軽口を封印して、俺の背中を軽く叩いた。

「神谷さん」ミナが小声で呼びかける。「これ、受付控えです。それと……がんばってください」

「ありがとう」

 外はもう、夜の深さを増していた。黒い魔石がポケットの中で静かに脈動する。二度目の扉は、まだ完全には開かない。だが、鍵穴に鍵は差し込まれ、ゆっくりと回っている。

 俺は扉の取っ手に手をかけた。十年分の冷たい空気は、もうそこにはなかった。代わりに、見たことのない景色の匂いがする。

 ——再査定。あの言葉が、胸の奥で火種のように明るく燃え続けていた。

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