第6話 正論の中の冤罪府

 特に、新幹線の話には、彼女は怒りを燃やしていたようだ。

「私の田舎は、新幹線が通ったおかげで、第三セクターにされてしまって、せっかく良質の温泉が出るということで、そこで温泉旅館を営んでいたお父さんは、店を大改修して、これからという時に、新幹線のせいで、温泉街に人が来なくなったことで、私たちは、宿を手放して、結局、その土地を追われることになったのよ」

 といって、怒りをぶちまけていた。

 そのあたりの事情は、店主にも、オーナーにも分かっているし、

「同じように店をやっていて、苦闘というものをまったく知らないわけではない」

 ということで、彼女の話を理解できないわけでもない。

 そんな時に老人がいうには、

「そんなことは最初から分かっていたことではないのか?」

 と言ったことで、二人は険悪なムードになってしまった。

 女の子も、老人も、それぞれ常連であり、店に来るようになった時期も、

「常連としてまわりから認識されるようになった時期」

 というのも、そんなに変わりがないということで、

「普段から、「意識しあっていた」

 といってもいいかも知れない。

「オーナーを結構やってきていると。それくらいのことは、よくわかっている」

 といってもいいだろう。

「店をやっていると、どうしても、マウントを取りたがる人というのは、若干数いるものだ」

 ということである。

 昔であれば、

「老人にそういう人が多かった」

 といえるだろう。

 店の中でというよりも、

「最終電車が近くなってきた時間帯に、酒を煽った労働者風の男性が、女の子に絡んでいる」

 という光景である。

 特に、よく聞いた話として、

「地元に、熱狂的なファンを持つプロ野球球団があり、その試合が終わってから少しした採集に近い電車の中で、一升瓶を片手に、まるで、土方のような人が少ない乗客の中で、完全に仕切っているという状況である」

 その中で、その男が必至になって、OL風の女の子がいれば、そこに絡んでいって、いろいろな話をするのだ」

 しかも、その話は、意外と政治の話であったり、経済の話であったりと、信じられないような難しい話をしているのだ。

 要するに、

「時間を持て余している」

 ということからか、

「新聞はよく読んでいるので、そういう知識は持っている」

 ということだ。

 ただ、その知識も、

「いつでも、マウントが取れるように」

 ということで、

「最初から考えていた」

 ということなのかも知れない。

 時代は、昭和の頃であり、昔のプロ野球というと、今のように、

「女子供が多く観戦に行く」

 という時代ではなく、

「サラリーマンや酔っ払いが、ヤジを叫びに行く」

 というような時代であれば、

「酔っ払いが電車の中で管を撒く」

 ということくらいは当たり前だ」

 といってもいいだろう。

 その女の子は、そんな昭和の時代というものを知るわけもないのに、その老人と話をしている時、いつも、

「電車の中で一升瓶を抱えている土方のおじさん」

 というイメージを抱いていたのだ。

 昔の昭和時代の映画などを見てみると、そのような人を見かけることもできるだろうが、彼女は、

「いちいち、そんな昭和時代の映画なんか、見たりはしない」

 ということであった。

 ただ、

「親から、そういうおじさんが昔はたくさんいた」

 という話を聞かされていたので、

「このおじさんを見た時、親から帰化されたイメージが頭に浮かんできたんです」

 ということで、実は、彼女が嫌がっているわけでもなく、言い争いをしているといっても、

「真剣に喧嘩をしている」

 というわけでもないのだった。

「おじさんを見ていると、悪い人には見えない」

 というのだった。

「むしろ、かわいそうって思えちゃうのよね」

 という。

 さらには、彼女としては、

「自分の肉親を見ている」

 というわけではなく。

「どちらかというと、まるで自分の分身を見ているような気がするの」

 というではないか?

「まるで、反面教師とでもいうような感じなのかい?」

 とオーナーが聞いてみると、

「いえいえ、もう一人の自分を見ているような気がするのよ」

 というのだ。

「じゃあ、ドッペルゲンガーのような感じなのかな?」

 と聞くと、

「それもちょっと違っているといった方がいいかも知れないわね」

 というのだ。

「ということは、共通点はあるという発想なのだろうけど、決して交わることのない平行線のような、一種の結界のようなものがあるということになるのかな?」

 というと、

「そうかも知れない」

 と答えるのだった。

「それにしても、君はまだまだ若いのに、昭和に興味があるのかい?」

 と聞くと、

「ええ、昭和なんて、本当に教科書でしか見たことがない、ただの歴史の一ページでしかないんだけど、何かの魅力を感じるのよ。特に、戦前や戦後の頃というと、さらに古い時代に想えて。そこで、本当は時代が変わっているのだから、どうして違う時代として認識させなかったのかしらね」

 というのだ。

「それは、天皇が変わっていないから」

 という、当たり前の話をすると、その瞬間、彼女が悲しい顔になったことで、それ以上は、

「何かを口にしてはまずい」

 と思ったのか、オーナーは、そこで口をつぐんだ。

 しかし、そのことに関しては、彼女は何も問題にしているわけではなく、

「それは分かっているわ。でも、天皇制だって、君主制から、象徴性に変わったわけでしょう? だったら、年号はそのままでも、時代ということでいえば、分けたとしても、いいんじゃないかしら?」

 という。

「それもそうだね」

 とオーナーがいうと、

「だって、占領軍から、歴史認識を変えるように押し付けられたわけでしょう? だったら、まったく別の時代としたっていいんじゃないかしら? できない理由でもあるというのかしらね」

 という。

 さらに、彼女は続ける。

「だって、あの戦争だって、最初は、大東亜戦争ということで、日本国内で、戦争の大義名分ということで、大東亜共栄圏を使うためだったわけで、それを占領軍が、使ってはいけない言葉ということにしたのだから、日本はその時に変わったということであれば、戦前戦後で違う国になったわけだから、時代を変えてもいいと思ってね」

 というのだった。

「なるほど」

 といってオーナーが納得すると、今度は、逆に、自分の言葉に逆らうかのような、おかしな表現を始めた。

「いや、やっぱり違うわ」

 と言い出したのだ。

「何が違うというんだい?」

 と聞くと、

「そもそも、当時の日本には、まだまだ天皇を崇拝する人がいて、天皇を処刑すると、統治ができなくなるということで、天皇制を残したのだから、ここで、時代の違いというものを、占領軍が示してしまうと、日本国民の反感を買うかも知れないということになるでしょうね」

 と彼女はいうのだ。

 彼女は、最初に、

「自分の意見を正しい」

 として話をしておいて、

「一度覆す形の、正当性のある意見を、まるで、免罪符のように使い、さらに、反対意見をいうことで、こっちの方が正論だ」

 とでもいうかのように、

「正論を、免罪符で隠す」

 というやり方をしているのであった。

 そう、彼女のやり方としては。

「自分の意見を話す時、自分では、正論だ」

 と思っているにも関わらず、

「それを一度、別の意見で隠し、そこから、正論と思えることを、正論と思わせない」

 というような方法ということで、

「他の言葉を使う方法」

 ということで、

「免罪符」

 のようなものを用意しているということであった。

 そんな彼女のやり方に、真っ向から、

「反対意見」

 というか、

「反対意見ではないが、自分の発想を正しい」

 ということでは同じ理屈なのだが、正当性を表す発想が違っているということから、

「お互いに、交わることもない平行線」

 というものを描いているのであった。

 彼女が、どういう論法の考え方であるのと同じで、老人も、

「頑固なところがあり、そのくせ、相手の考えを見抜く」

 ということであったり、

 その考え方に、

「必ず最初はリスペクトをする」

 ということから、

「結局、最終的に交わることがない」

 ということであれば、

「徹底的に言い争う」

 ということになる。

 しかし、正反対に、

「意見が絶えず平行線」

 というものを描き、

「限りなくゼロに近い」

 という、

「無限ループ」

 という考えを示すのであれば、

「その人とは、絶えず発想に制限がない」

 ということで、結果的に、

「一度言い争ってしまうと、無限にかみ合わない」

 といってもいいだろう。

 つまり、

「一度かみ合えば、離れることがない相手だとしても、一度かみ合わなくなると、二度とかみ合わない」

 ということになるのだ。

 それを、

「意見がかみ合うはずだ」

 と思っている二人は、かみ合わないことに怒りを覚え、かみ合わない以上、

「どちらかが譲歩しなければ、関係がもとに戻ることはない」

 ということになる。

 特に、老人の考え方として、

「一度かみ合った人というのは、前世から、かみ合っていた」

 という考えであった。

「一つの世の中でかみ合うことができるほど、人間の考え方というのは、単純にはできていない」

 と考えていたのである。

 だから、

「この女の子は、前世からかみ合ってきた人なのだ」

 と思うのであって、

「意見が合わない」

 ということは、

「来世にまで引き継がれることになるのだろうか?」

 と考える。

 これは宗教によって考え方は違うのだが、

「人間は死ぬと、生まれ変わるために準備をする」

 というところは変わらないのだが、

「行った世界によって、人間には絶対に生まれ変われない」

 という考え方であったり、

「行った世界での行いによって、生まれ変わり先が変わってくる」

 という考えがある。

 つまりは、

「死んでしまえば、その瞬間、生まれ変わる運命は決まっている」

 というものと、

「いや、チャンスはある」

 という考え方である。

 そう考えると、

「前世の記憶がまったく残っていない」

 というのは、

「理屈としては合っている」

 ということになるかも知れない。

 そして、

「この世では、進む時間は、

「誰にでも平等だ」

 と言われるが、

「死んだ後の世界」

 というものがいくつもあると言われるが、その世界によって、

「まったく時間の進みがまったく違う」

 といってもいいだろう。

 そういう意味でも、

「同じタイミングで生まれ変わるということはできない」

 といえるのではないだろうか?

「ひょっとすると、この世での寿命が、もし80年だ」

 ということであれば、その世界によって、

「15年であったり、へたをすれば、一か月かも知れない」

 それは、

「動物や昆虫の寿命」

 といってもいいだろう。

 要するに、

「動物の寿命」

 というのは、

「この世では、ほとんど皆違う」

 ということになる。

 しかも、

「寿命を全うできるとは限らない」

 というではないか。

 事故にあったり、病気で死んだりということであり、それは動物であれば、もっと激しい。

「人間に殺される」

 ということもあれば、

「弱肉強食」

 という世界で、

「天敵」

 と呼ばれる連中に食われてしまうということになるだろう。

 しかし、

「自然の摂理」

 ということで、

「死んでしまっても、それが、肥料になったりすることで、ぐるっと回って、自分たちの食料になる」

 というのが、

「自然の摂理」

 と言われるものである。

 だから、

「自然の摂理」

 ということを考えると、

「犠牲になる」

 ということは美学であり、

「耽美主義的なもの」

 といってもいいだろう。

 その考えが、人間であれば、なぜか、

「間違いである」

 と言われることになる。

 しかし、人間というのは、他の動物と違って、

「人間だけが、生きるためだけでなく、平気で仲間を殺す」

 と言われている。

 もちろん、

「すべてを生きるため」

 といえるのかも知れないし、

「平気で」

 などということはないということなのかも知れない。

 それを考えると、

「人間が人間を裁く」

 ということが、基本的に許されるのかどうか?

 という理屈になるわけであり、それこそ、

「生殺与奪の権利」

 という問題にまで関わってくるのかも知れない。

「生殺与奪の権利」

 ということを言い始めると、

「そもそも、人間というものを人間が裁くことができるのか?」

 というところから始まった議論ということで、

「結局、また戻っている」

 ということで、

「結局、大きな円を描いている」

 ということになるのだろう。


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