第5話 笑う者たち
コンコン、と扉を叩く音が響いた。
「どうぞ」
聖女エリアの声が、室内から聞こえる。
扉が開き——ルーファスが入ってきた。
かつてザックの弟子だった男は、今や上級薬師の地位に就いている。深緑の外套を羽織り、胸には教会の紋章が輝いていた。
「失礼します、聖女様」
ルーファスが恭しく頭を下げる。
エリアは、優雅に椅子に座ったまま——微笑んだ。
「いらっしゃい、ルーファス。どうぞ、座って」
彼女が対面の椅子を示す。
ルーファスが座ると——エリアは立ち上がり、部屋の扉に鍵をかけた。そして、窓のカーテンを閉める。
廊下に人がいないことを確認し——
彼女は、ようやく——
仮面を、外した。
「ふう」
大きく息を吐き、椅子に崩れるように座る。
慈悲深い聖女の表情は消え——代わりに、だらしなく脚を組む女の姿があった。
「疲れたわ。今日は特にね」
エリアが髪を掻き上げる。
「あの男が来たのを見ましたよ」
ルーファスが言った。
「ザック……いえ、元上級薬師のザックが」
「ええ」
エリアが笑った。
「驚いたわよ。まさか、本当に来るなんてね」
彼女がテーブルの上のワインボトルを手に取り、グラスに注ぐ。一口飲んで——満足そうに息を吐いた。
「それにしても——随分と落ちぶれていたわね」
「ええ」
ルーファスも笑みを浮かべた。
「ボロボロの服に、痩せこけた顔。まるで乞食のようでした」
「滑稽だったわ」
エリアが愉快そうに言った。
「かつての上級薬師様が、床に這いつくばって——私に土下座するなんてね」
彼女がワインを一気に飲み干す。
「最高の見世物だったわ」
「そうでしょうね」
ルーファスが同意した。
「私も、ぜひあの男の無様な姿を見たかったものです」
彼が椅子に深く座り直す。
「今では、私が上級薬師の立場にあります。邪魔だったあの男を蹴落とせて——本当に、満足していますよ」
「そうでしょうね」
エリアが微笑む。
「あなたは、ずっとあの男の影に隠れていたものね」
「ええ」
ルーファスの目が、冷たくなった。
「どれだけ努力しても、いつも『ザックの弟子』としてしか見られなかった。自分の功績さえも、『師匠の教えが良かったから』と言われる始末」
彼が拳を握る。
「だが、今は違う。私が、上級薬師だ。私の、名前を人々は評価する」
「素晴らしいわ」
エリアが拍手した。
「あなたにふさわしい地位よ、ルーファス」
「ありがとうございます、聖女様」
ルーファスが頭を下げる。
しばらくの沈黙の後——
ルーファスが口を開いた。
「それで……なぜ、あの男は教会を訪れたのですか?」
「ああ、それね」
エリアが笑い出した。
「面白い話よ。聞いて笑わないでちょうだい」
彼女がグラスに、再びワインを注ぐ。
「リナという——小娘を助けるためですって」
「小娘?」
「ええ」
エリアが嘲るように言った。
「貧民街で拾った孤児らしいわ。それが、魔力過剰症になったんですって」
彼女がワインを飲む。
「で、治療してくれって——私に頼みに来たのよ」
「はあ……」
ルーファスが呆れたように息を吐いた。
「貧民街の孤児ですか。穢らわしい」
「本当にね」
エリアが顔をしかめた。
「あんな汚らしい子供、よく触れるわね。病気が移りそうだわ」
彼女が吐き捨てるように言う。
「貧民なんて——ゴミよ。卑しくて、愚かで、存在価値もない」
「全くです」
ルーファスが同意する。
「でも——」
彼が不思議そうに訊いた。
「聖女様は、そう思っているのに……なぜ、わざわざあの男を招き入れたのですか?」
その質問に——
エリアの顔が——
愉悦に歪んだ。
「決まってるじゃない」
彼女がワインを飲み干し、グラスをテーブルに置く。
「楽しむためよ」
「楽しむ……?」
「ええ」
エリアが立ち上がり、窓際に歩いていく。
「元から、あの子供を助けるつもりなんてなかったわ。金貨5枚なんて端金で、私が動くわけないでしょう?」
彼女が窓の外を見る。
「でも——だからこそ、面白いのよ」
エリアが振り返った。
「あの男を部屋に招き入れて、希望を持たせて——そして、絶望に叩き落とす」
彼女の目が、狂気じみた光を放つ。
「土下座させて、懇願させて、泣き叫ばせて——それでも、拒絶する」
エリアが笑った。
「最高の娯楽じゃない」
「なるほど」
ルーファスが感心したように頷いた。
「聖女様らしい」
「でしょう?」
エリアが満足そうに椅子に戻る。
「あの男の顔——忘れられないわ。怒りと、絶望と、無力感に満ちた——あの表情」
彼女が目を細める。
「ああ、また見たいわね。もう一度、あの男が這いつくばって私に懇願する姿を」
「それは……難しいのでは?」
ルーファスが言った。
「もう二度と、ここには来ないでしょう」
「そうね」
エリアが残念そうに言った。
「でも——いいわ。十分楽しんだもの」
彼女が立ち上がる。
「さて、もう遅いわね。そろそろ休みましょう」
「はい」
ルーファスも立ち上がった。
扉に向かいかけて——
エリアが、ふと言った。
「そういえば、ルーファス」
「はい?」
「例の……事業は、どうなっているの?」
その言葉——
わざと、遠回しに言われた言葉。
ルーファスは一瞬、動きを止めた。
そして、振り返り——
笑みを浮かべた。
「うまくいっていますよ」
その声は、低く、そして、満足げだった。
「収益も順調に上がっています。貧民街での販売網も、着実に広がっています」
「そう」
エリアが満足そうに頷いた。
「いい仕事ね」
「ありがとうございます」
ルーファスが恭しく頭を下げる。
「では、失礼します」
彼は扉を開けて廊下へ出ていく。
扉が静かに閉まった。
◇◇◇
一人になった部屋でエリアは、再びワインを注いだ。
グラスを持ち上げ、窓の外を見る。
教会区の夜景。
美しく整備された街並み。
そして、遠くに見える——
貧民街。
薄汚く、混沌とした——地獄のような場所。
「ザック」
エリアが呟いた。
「お前は、今頃——あそこで、絶望しているのでしょうね」
彼女が笑う。
「娘を救えず、金もなく、未来もない——そんな状態で」
ワインを一口飲む。
「ああ、想像するだけで——気分がいいわ」
エリアが椅子に座り、脚を組んだ。
「お前は、もう終わったのよ、ザック」
彼女がグラスを掲げる。
「二度と、這い上がってこられない——地獄の底で、朽ちていきなさい」
その言葉が、静かな部屋に、響いた。
◇◇◇
だが、エリアは、まだ知らない。
地獄の底に叩き落とされた男が、どこまで堕ちることができるのかを。
そして、絶望から生まれる、狂気の炎がどれほど恐ろしいものになるのかを。
貧民街の片隅で、ザックはすでに新たな道を、歩き始めていた。
それは、復讐への道。
そして、後に伝説となる麻薬王への、第一歩だった。
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