​​貧民街の麻薬王 〜聖女に追放された薬師、裏社会で成り上がり腐敗した教会を叩き潰す〜

ぬん。

第一章 教会編

第1話 薬師、追放 <前編>

俺の人生が音を立てて崩れ始めたのは、聖女が倒れた瞬間だった。


教会大広間は、いつものように朝の儀式が行われていた。ステンドグラスから差し込む光が、白い祭壇を神々しく照らしている。俺、ザックは会堂の隅で、他の職員たちと共に跪いていた。


毎朝繰り返される、いつもの光景。祈りの言葉も、讃美歌も、全て耳に馴染んだものだ。俺は薬師として十五年、この教会で人々を救ってきた。病に苦しむ者に薬を与え、傷ついた者を癒し、死の淵から引き戻してきた。


それが俺の誇りだった。


壇上では聖女エリアが、両手を広げて祈りの言葉を紡いでいる。彼女の金色の髪が光を受けて輝き、白い法衣がゆったりと揺れる。集まった信徒たちは、うっとりとその姿を見つめていた。


「——神よ、我らに祝福を」


聖女の声が会堂に響き渡る。その瞬間だった。


彼女の体が、ぐらりと揺れた。


「……あ」


聖女の顔が青ざめる。そして次の瞬間、糸が切れた人形のように前のめりに倒れ込んだ。


ガシャンッ!


甲高い音が響く。聖女の懐から何かが転がり落ち、床で砕けた。小さなガラス瓶——その中身が床一面に飛び散る。


直後、鼻を突く異臭が広がった。


腐った果実と、焦げた獣の毛を混ぜたような、吐き気を催す臭い。俺は思わず顔をしかめた。


待て、この匂いは——


脳裏に知識が蘇る。薬師として培った経験が、警鐘を鳴らす。この臭気の組成、揮発性、粘度——俺には心当たりがあった。


怨恨茸おんねんだけから抽出された、神経毒。


だが、なぜ聖女がそんなものを? いや、そもそも誰が——


「聖女様ッ!」


真っ先に駆け寄ったのは、俺の弟子のルーファスだった。二十代半ばの若い薬師で、俺が三年かけて育て上げた腕利きだ。献身的で、勤勉で、才能にも恵まれている。将来を嘱望された、俺の自慢の弟子。


彼は躊躇なく聖女のもとへ駆け寄り——


その瞬間、俺の背筋に悪寒が走った。


何だ、この感覚は。


説明のつかない、嫌な予感。まるで氷水を脊髄に流し込まれたような、鋭い恐怖。何か、決定的に間違ったことが起きようとしている。歯車が狂い始めている。運命が、暗い方向へと転がり始めている——


何故かはわからない。だが、そんな確信が、胸の奥から湧き上がってきた。


動け。今すぐ動け。ここから逃げろ。何かまずいことが起きる。


本能が叫んでいた。だが、俺の体は金縛りにあったように動かない。


「皆、下がってください! この匂いは毒物です!」


ルーファスの声が響く。彼は素早く懐から布を取り出し、口元を覆った。その動作は滑らかで、まるで——まるで、予め準備していたかのようだった。


いや、考えすぎか。緊急時に適切な対処をする。それが薬師として当然の——


会堂は一気に騒然となった。悲鳴、怒号、祈りの声——それらが渾然一体となって、俺の耳を打った。


「早く避難を! 毒の可能性があります!」


職員たちが慌てて信徒たちを誘導し始める。パニックだ。人々は出口に殺到し、押し合いへし合いしている。


俺も立ち上がろうとしたが、足が動かない。視線はただ、倒れた聖女と、彼女を抱き起こすルーファスに釘付けになっていた。


心臓が、異常な速さで鼓動している。掌に、嫌な汗が滲む。


何かが、おかしい。


何かが、決定的におかしい。


ルーファスが聖女を抱き上げる。聖女の顔は蒼白で、唇が小刻みに震えていた。彼女は何かを言おうとしている。声にならない声を、必死に絞り出そうとしている。


そして——


聖女の右手が、ゆっくりと上がった。


その白い指先が、一点を指し示す。


俺の方を。


心臓が、一瞬止まった。


「……ザック、様、が……」


ルーファスの声が、静まり返った会堂に響いた。


その声音には、驚きと——悲しみが混じっていた。いや、混じっているように聞こえた。


「聖女様が師匠を……?」


彼の声が震えている。いや、震えているように聞こえる。


俺には分かった。薬師として十五年、人の機微を観察してきた。病人の嘘を見抜き、症状を読み取り、心の奥底まで見通してきた。


あれは演技だ。


完璧な、計算し尽くされた演技だ。


なぜ。


なぜルーファスが、そんなことを。


俺はお前を育てた。知識を与え、技術を教え、薬師としての心構えを叩き込んだ。お前は俺の弟子で、息子のような存在で——


「まさか……師匠、あなたが聖女様を……!?」


「待て、ルーファス。俺は何も——」


声が震えている。自分の声だと気付くのに、一瞬かかった。


「師匠! なぜです! なぜこんなことを!」


ルーファスの声が大きくなる。会堂に残っていた人々の視線が、一斉に俺に向けられた。


その目に宿っているのは、疑念。恐怖。嫌悪。


違う、と叫びたかった。俺じゃない、俺は何もしていない、信じてくれ——


「俺は何も——」


「師匠! 師匠! どうしてこんなことを!」


ルーファスが何度も何度も俺の名を呼ぶ。その声は悲痛で、怒りと悲しみに満ちていて——そして完璧に、周囲の心を掴んでいた。


俺の名前が、まるで呪いの言葉のように響く。


「殺人者!」


「聖女様を毒殺しようとした!」


「許せんッ!!」


罵声が飛び交う。俺を非難する声が、波のように押し寄せる。


息ができない。胸が締め付けられる。これは悪夢だ。そうに違いない。目を覚ませば、いつもの朝が戻ってくる——


ザック、ザック、ザック——


名前を呼ぶ声が重なり合い、耳の中で反響する。世界が歪んでいく。視界の端がぼやけ、音が遠くなっていく。


なぜだ。


なぜこんなことに。


俺は何も悪いことをしていない。ただ、人を救いたかっただけだ。薬で病を治し、苦しみを和らげ、命を守りたかっただけなのに——


俺の意識は、まるで深い水の底に沈んでいくように——


暗闇に、呑み込まれていった。

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