第2話

記録庫の受付は、朝でも灯りが薄い。細い採光窓から光が斜めに差すだけで、真鍮の柵と石の壁が冷たく、羊皮紙の乾いた匂いが喉の奥に残る。


俺は窓口の前に立って、もう三度目の問いを口にした。


「閲覧許可。昨日申請を出した。原本の閲覧だ。戦時特例第17条の記述を見たい」


事務官は台帳をめくる音だけ返す。砂時計のかすかな音が、待ち時間を刻む。背後でビオレタが静かに立っている。彼女は何も言わないが、指先でインク瓶を軽く撫でていた。待つことに慣れているが、気にはしている。


「閲覧票は、今朝の承認枠に入りましたが、原本の持ち出し許可は照合室での記入が必要です。申請書の目的欄に"白書光の使用"と書かれているため、監督官の同席が推奨されます」


「推奨だな。必須じゃない」


「はい。ですが、手続きの整合性を考えますと……」


「整合性は、俺が責任を持つ。今見たい」


言い切った瞬間、俺の声が少し荒くなっていたことに気づく。事務官の表情は変わらない。むしろ、俺が焦っていることを察して、さらに淡々と続けた。


「お待ちください。控え室へご案内します。閲覧票の記入を済ませていただいてから、書架列へお通しします」


真鍮の柵の向こうで、鍵束の音。俺は息を吸って、拳を緩めた。怒りは武器にならない。ここでは札が武器だ。


背後から、ビオレタの声。


「ハシントさん、一度落ち着きましょう。許可票の記入には時間がかかりますが、その間に索引の目星をつけておけば、書架での作業は早くなります」


「……分かった」


彼女の言い方は丁寧だが、明確だ。俺が急いでも、手順が飛べば結果が遠のく。それは戦場でも同じだった。焦って隊列を崩せば、守るべき仲間が増える。


控え室に通された。机の上に閲覧票と羽ペンが置かれる。記入欄は細かく、目的・範囲・使用術式・責任者の署名。俺は1つずつ埋めていく。文字は下手だ。剣だこのある指先が、ペンを持つと固い。


ビオレタは隣の椅子に座り、小さな手帳を開いた。


「ハシントさん、戦時特例第17条は、旧式索引の『緑綴じ』の区分に入っているはずです。背表紙に緑の革、年代は終戦直後の布告群。連番で管理されていますが、同名の資料が複数ある可能性があります。年の刻みを確認しながら、原本を特定しましょう」


「緑綴じ、年の刻み、原本。了解した」


「それから、白書光は単独だと範囲が狭いです。欄外や注記が続く場合、ページを少しずつずらして当てる必要があります。私が光を持ちますから、ハシントさんは本を抑えて、順番を指示してください」


「光を当てる。俺が抑える。順番を言う」


俺は自分の役割を復唱した。ビオレタは小さく頷く。彼女の琥珀の瞳はまっすぐで、不安の色はない。準備ができているのだ。


閲覧票の記入を終え、事務官に提出する。承認印が押され、ようやく書架列への扉が開いた。



書架列は静かで、埃の甘い匂いが立ち込める。天井は高く、採光は弱い。背表紙の文字は擦れていて、指先で触れるとざらつきが残る。


ビオレタは旧式索引の棚の前で立ち止まった。彼女は手帳と照らし合わせながら、背表紙を1つずつ確認する。指先は迷わない。


「ハシントさん、ここです。緑綴じの終戦布告群。年代が3つに分かれています。上から順に、終戦直後、第一次整理、第二次整理。私たちが見たいのは、終戦直後の布告です」


「どれだ」


「この、三段目。背表紙に『終戦布告・暫定処置』と刻まれているもの。年代の刻みが"臨時"になっていれば、それが原本です」


俺は手を伸ばし、三段目の棚から緑綴じを引き抜いた。重い。革の綴じは硬く、表紙の縁が少し欠けている。背表紙を確認すると、小さく"臨時"の刻印。


「これか」


「はい。それです」


ビオレタは満足そうに頷き、次に隣の棚を見た。


「ハシントさん、もう1つ。貸出記録も見ておきたいです。緑綴じ原本が誰に閲覧されたか、記録が残っているはずです。記録窓口で確認できますが、書架に控えがあるなら先に見ておきましょう」


「貸出記録、控え。分かった」


彼女は書架の端に移動し、薄い冊子を引き出した。表紙には『閲覧記録・暫定処置関連』とある。ページをめくる音が、静かに響く。


「……ありました。緑綴じ原本の閲覧記録。最後の閲覧は、三年前。閲覧者の名前は……商会連合の事務官です」


「商会連合」


その名前を口にした瞬間、喉の奥に紙埃の渇きが広がった。商会連合。港の倉庫札の話を思い出す。あのとき、店主が言っていた。「船が関税所で足止めされて、倉庫に入る前に手数料が増えてる」。その手数料を動かしているのは、商会連合だ。


「ビオレタ、貸出記録の割印は見えるか」


「見えます。ただ……少し気になることがあります。後で記録窓口で確認しましょう」


彼女は冊子を閉じ、俺に目を向けた。


「まず、黒化を出しましょう。閲覧机へ移動します」



閲覧机は書架列の奥にある。灯りは小さく、机の上だけが白い光で照らされている。俺は緑綴じ原本を机に置き、表紙を開いた。


紙は古く、縁が少し黄ばんでいる。文字は整っているが、欄外に細かい注記が続いている。そこに"臨時→恒常"の置換指示があるはずだ。


ビオレタは白書光の携行灯を取り出し、小さく詠唱した。白い光が柔らかく灯る。


「ハシントさん、ページを開いて、本を抑えてください。私が光を当てます。黒化が出たら、そこで止めます」


「分かった」


俺は本を抑え、ページを開く。ビオレタが光を当てる。紙肌を撫でるように、白い光が滑る。


最初のページ。何も出ない。


次のページ。変化なし。


三ページ目。欄外の注記に、じわりと黒が浮かんだ。


「出た」


ビオレタの声が、少し弾む。


「ここです。欄外の注記。『臨時→恒常』の置換指示が、黒化しています。これは、後から書き加えられたものです。原文にはなかった指示です」


俺は欄外の黒化を見た。文字が浮いている。だが、注記は続いている。欄外の端まで、文字が詰まっている。


「ビオレタ、続きがある。欄外に、まだ文字がある」


「……はい。見えます。次のページにも続いているかもしれません。光を移動させます」


彼女は光をずらし、次のページへ当てる。だが、白書光の範囲は狭い。単独では、欄外の端まで届かない。


「範囲が、狭い」


ビオレタの声に、少し焦りが混じる。


「ハシントさん、本を少し傾けてください。光が端まで届くように、角度を調整します」


「今か」


「はい、今です。ゆっくり傾けて……」


俺は本を傾けた。だが、角度がきつすぎて、ページが閉じかける。


「待て、閉じる」


「ハシントさん、もう少しだけ……」


「待てない。許可票がまだ出てない。ここで時間を使いすぎると、記録窓口が閉まる」


俺の声が、少し荒くなった。焦りが喉まで来ている。ビオレタは光を止め、俺を見た。


「ハシントさん。焦ると、手順が飛びます。手順が飛ぶと、証拠が成立しません。私たちは、証拠を出すためにここにいます」


彼女の声は静かだが、芯がある。俺は息を吸って、拳を緩めた。


「……悪い。言い過ぎた。続けよう」


「大丈夫です。もう一度、角度を調整しましょう。今度は、私が本を支えます。ハシントさんは、光の位置を指示してください」


「俺が、指示する?」


「はい。ハシントさんの方が、視野が広いです。私は光に集中しますから、どこに当てるべきか、言ってください」


役割が逆になった。だが、それでいい。俺は欄外の注記を見て、光の位置を指示する。


「もう少し右。そこ、文字が続いてる」


「分かりました」


光が移動する。欄外の文字が、再び黒く浮かんだ。


「出た。ここにも、置換指示がある」


「はい。黒化を確認しました。欄外注記の全体が、後から書き加えられたものです。これで、一次確定が取れます」


ビオレタは光を止め、小さく息を吐いた。俺も、肩の力を抜く。


「ビオレタ、ありがとう。お前がいなかったら、俺は手順を飛ばしてた」


「いいえ。ハシントさんがいなかったら、私は範囲を広げられませんでした。二人でないと、この黒化は出せなかったです」


彼女は小さく笑った。色白の頬に、少し赤みが差す。



黒化の確認を終え、俺たちは記録窓口へ向かった。貸出記録の割印を、正式に確認するためだ。


記録窓口は書架列の手前にある。冷えた石卓の上に、閲覧記録の冊子が並んでいる。係の事務官は、俺たちを見て小さく頷いた。


「閲覧記録の確認ですね。どの資料ですか」


「緑綴じ原本、終戦布告・暫定処置。貸出記録の割印を見たい」


事務官は冊子を開き、該当ページを指でなぞった。


「こちらです。最後の閲覧は三年前、商会連合の事務官。割印は……ここに押されています」


俺は冊子を覗き込んだ。割印が押されている。だが、印の縁が、半分欠けている。


「半分、欠けてる」


ビオレタが、俺の横で声を上げた。


「ハシントさん、見てください。割印の右半分が、欠けています。これは、印章の欠損か、意図的な半押しです」


「意図的な、半押し」


俺は割印の欠け目を指でなぞった。鋭い。計画的な欠け方だ。


「ビオレタ、これは何を意味する」


「分かりません。ですが、商会連合の紋章と照合する必要があります。もし、この欠け目が商会連合紋の一辺と一致するなら……」


彼女は言葉を切った。俺は続きを待つ。


「……貸出記録が、改ざんの痕跡になります」


事務官は、俺たちのやり取りを黙って聞いていた。そして、小さく言った。


「割印の照合は、照合室での共同詠唱が必要です。白書光の単独使用では、印章紋の全体像が出ません。申請を出していただければ、明日には許可が下ります」


「共同詠唱。照合室。明日」


俺は言葉を区切って、頭の中で整理した。またひとつ、手順が増えた。だが、これは逃げられない手順だ。


「ビオレタ、申請を出す。明日、照合室で共同詠唱をする。商会連合紋との照合を進める」


「はい。そうしましょう」


彼女は手帳を開き、メモを取り始めた。俺は記録窓口を出て、書架列の方を振り返る。緑綴じ原本の黒化は確認できた。だが、割印の半欠けという新しい穴が見えた。


穴は、まだ続いている。


だが、俺たちは一歩進んだ。今度は、手順を踏んで進んだ。


階段を下りながら、俺は小さく呟いた。


「明日、照合室。共同詠唱で、印を割る」


ビオレタが、後ろから応える。


「はい。1つずつ、確実に」


外に出ると、港の方から白い粉が風に乗って舞っていた。倉庫の滞留は、まだ解けていない。だが、俺たちの手には、黒化した注記と半欠けの割印がある。


剣は壁に立てかけたままだ。今は、これで戦う。

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