カルテに記されない熱 Another Side
lilylibrary
第1話 対照的な検体(凛 視点)
世界は、情報で構成されている。
私が座る講義室の、湿度、照度、そして、三十二デシベルの、意味のない雑音。
それらは全て、私の思考の表層を滑り落ちていくだけの、余剰なデータに過ぎない。
私の世界は、目の前に開かれた『グレイ解剖学』の、整然と並んだ活字と、そこに記された、揺るぎない論理だけで、完璧に、満たされていた。
前方の壁に、次の臨床実習のペアリストが張り出されたらしい。
歓声とも悲鳴ともつかない、感情の起伏に満ちた、非効率な音声データが、私の聴覚野をわずかに刺激する。
無駄なことだ。
ペアが誰であろうと、私のやるべきことは変わらない。
それは、与えられたタスクを、設定された時間内に、完璧に遂行すること。
ただ、それだけだ。
パートナーとは、目的達成のための、変数の一つに過ぎない。
「…あの、氷川さん、ですか?」
不意に、思考を遮る、ノイズが混入した。
少しだけ、高い周波数を持つ、柔らかな、女の声。私は、読んでいた章の最後の行までを正確に記憶してから、ゆっくりと、顔を上げた。
発声源は、私の目の前に立っていた。
綿貫、柔。 私の脳内データベースが、即座に、彼女の情報を引き出す。学籍番号、19B088。
座学の成績は、常に中庸。特筆すべきは、模擬患者とのコミュニケーション実習において、常に最高評価を得ているという、極めて非論理的な特記事項のみ。
性格分析、協調性著明、自己主張脆弱。
総合評価、パートナーとしては、足を引っ張る可能性、67%。制御可能な、変数。
そこまでは、想定の範囲内だった。
しかし、私の視覚情報が、私の完璧な分析にエラーを告げた。
なんだ、あれは。 彼女が着ている、他の学生と全く同じはずの、規格品のスクラブと白衣。
しかし、その布地が描くシルエットは、明らかに未知のものだった。
布地は、その内側から未知の質量と柔らかな弾力によって、限界まで押し広げられている。
特に、胸郭前面。解剖学的な人体模型では決して再現できない、圧倒的な量感。
それは、単に「脂肪組織の過多」という言葉だけでは、到底、納得できない現象だった。
視線が釘付けになる。 分析が追いつかない。
あれは、なんだ。あの、重力に逆らうことなく、しかし、自らの重みで、豊満な円弧を描く、柔らかな曲線は。
あの、白衣の僅かな隙間から覗くスクラブの布地を、内側から淡く発光させているかのような、肌の温かさは。
それは、私が信奉するシャープで機能的な人体の構造美とは、そして同性であるはずの私の身体とは、全く異質の、しかし否定しようのない、生命感に満ちた美しさだった。
ドクン、と、自分の心臓が、大きく脈打った。
不整脈か? いや、違う。洞性頻脈。交感神経が、亢進している。
原因は? 目の前の、この、歩く、異常データ。
私の脳が、警報を鳴らす。理解不能。分析不能。
このままでは、私の思考の、恒常性(ホメオスタシス)が、維持できない。
「わ、私、綿貫柔です。今回の実習、ペアみたいで…。その、よろしく、お願いします」
彼女が、頭を下げる。
その動きに合わせて、彼女の胸がゆっくりと、そして豊かに、揺れた。
その、物理法則にあまりにも忠実な、柔らかな運動エネルギーが、私の網膜を焼き、思考を完全に麻痺させた。
まずい。このままでは、いけない。
この、感情の奔流を、せき止めなければ。
この、私の中の、論理を破壊しようとする、温かくて柔らかい未知の現象を、制御下に置かなければ。
「…氷川凛。資料は、読んだ。よろしく」
私の口から出た声は、自分でも、驚くほど、冷たく、そして、硬かった。
そうだ。これでいい。
私は、氷川凛だ。感情に、揺さぶられることなど、あってはならない。
「あ、はい!私も、氷川さんのことは噂で…って、あ、いえ、その、成績がとても優秀だって聞いてて!足を引っ張らないように頑張りますので!」
「噂に興味はない。足を引っ張るかどうかは、君の能力次第だ。私は私の仕事をするだけだから」
壁を築け。高く、厚く。
彼女の、あの全てを無力化してしまうような、柔らかな雰囲気に侵食されるな。
「う……はい! が、頑張ります……!」
彼女が、萎縮するのを見て、私は、少しだけ、安堵した。
しかし、私の視線は、まだ、彼女の、あの異常な胸郭から、離れることができないでいた。
そうだ。これを、利用するんだ。
私の暴走した、この異常な好奇心を、正当な医学的探求へとすり替えるんだ。
「ところで、綿貫さん」
「へ?は、はい!」
「君、呼吸器系の、既往歴は?」
「え?いえ、特にないですけど……どうしてですか?」
あの質量は、肺を圧迫し、呼吸機能に、何らかの影響を与えているはずだ。
呼吸運動における、胸郭の可動域は、どうなっている?
一回換気量は?
そうだ、これは、極めて、興味深い、医学的な、問いだ。
決して、私の個人的な動揺などでは、ない。
「…いや。なんでもない」
私は、そう言って、無理やり、彼女から、視線を切った。
そして、目の前の『グレイ解剖学』へと意識を強制的に戻す。
しかしもう、そこに書かれたどんな活字も私の頭には、入ってこなかった。
私の脳裏には、先ほどの、柔らかな曲線と温かそうな光だけが、残像のように焼き付いて離れない。
私と彼女、同じ女性の身体であるはずなのに、こうも違うのか。
彼女の身体は「普通」ではない。異常というわけではないが、少なくとも標準的なものではない。 そう、結論づけるしかない。
私にとって、観察し、分析し、そして解明すべき、一つの研究対象。 そうだ。 あれは、私の……。
「……実に、興味深い、『検体』だ」
無意識に、私の口から、その言葉が、漏れた。
その瞬間、私は、自分の口元が、ほんのわずかだが満足したかのように、歪んだのを自覚した。
そうだ、これでいい。
「検体」。
その冷たく無機質なラベルを、あの温かくて柔らかい未知の存在に貼り付けた瞬間。私の心臓はようやく、その危険な高鳴りを、少しだけ鎮めてくれたのだ。
私はまだ知らない。
その「検体」が、私の完璧だったはずの世界を、これから根底から覆していく唯一無二の劇薬なのだということを。
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