錆びた錨
潮崎 譲
プロローグ
潮の香りが、やけに鼻につく夜だった。
安物の煙草の煙が、狭い事務所に充満している。
俺は、黒崎譲二。
元は神奈川県警の刑事だったが、今はしがない私立探偵だ。
警察組織の不条理に嫌気がさし、自らドブ川に飛び込むようにして、このS市の裏通りに流れ着いた。
事務所のドアが、遠慮がちにノックされた。
こんな夜更けに尋ねてくる客は、ろくなもんじゃない。
案の定、ドアを開けると、ずぶ濡れの女が立っていた。
年は二十歳そこそこか。上等なトレンチコートが、雨と恐怖で台無しになっている。
「……何か、ご用件かな」
俺は、ぶっきらぼうに尋ねた。女は震える唇で、か細い声を絞り出す。
「兄を、探してください」
ありきたりの依頼だ。
だが、女の瞳の奥に宿る深い絶望が、俺の心を揺さぶった。
面倒なことになる。
そう直感しながらも、俺は女を事務所の中に招き入れていた。
女の名前は、水原沙織。
S大学に通う学生で、半年前に失踪した兄を探しているという。
警察にも届けたが、まともに相手にされなかったらしい。よくある話だ。
「兄さん、何かトラブルを抱えていたんじゃないか?」
俺の問いに、沙織は俯いた。長い沈黙の後、ぽつりと呟く。
「……K-NEXTという会社について、調べていたようです」
K-NEXT。今、このS市で最も勢いのあるIT企業だ。
だが、その裏では黒い噂が絶えない。
急成長の裏には、汚い金の流れがある。俺も、何度かその名を耳にしていた。
「警察が動かない理由が、それか」
俺は、バーボンを呷った。
アルコールが、乾いた喉を焼く。厄介な仕事になりそうだ。
だが、俺の心には、奇妙な高揚感が芽生えていた。
退屈な日常に、錆びついた錨が、ようやく動き出すのかもしれない。
「引き受けよう。だが、高くつくぜ」
俺は、ニヒルに笑った。
沙織は、こわばった表情を少しだけ緩め、深々と頭を下げた。
こうして、俺の長い夜が始まった。
錆びついた錨は、再び暗い海の底へと沈んでいく。
その先に何が待ち受けていようとも、もう後戻りはできない。
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