第9話 応急処置
銃声がいまだに響き渡り、広いホール全体に反響していた。多くの人々が倒れ、弾丸を浴びて苦痛に叫び声を上げる者もいれば
中には、黒物病への免疫が十分でない者たちもいた。死への恐怖が極限に達したその瞬間、彼らの肉体は変異を起こし
目の前で“化け物”へと姿を変えていった
そして変異が確認された途端、特別職員たちは迷いなく銃を持ち替え、致命点を正確に撃ち抜いていく。
「レンジくん! レンジくん! 聞こえる!?」
這って近づいてくるミキの声が、レンジの意識を呼び戻した。彼は床に仰向けに倒れ、顔を歪めながら苦しみに耐えていた。
「うっ……痛っ……おれ……」
身体を起こそうとするが、わずかに痙攣するだけで動けない。痛みが腹部の右下を貫く。先ほど、弾丸が貫通した場所だ。
「大丈夫……ミキとオイダイラは……?」
「私は平気!」
ミキが答える。声には焦りが滲んでいるが、まだ冷静さを保っていた。すぐ近くで座り込んでいたオイダイラが、鋭く言い返す。
「その口でよく言うな……おまえのほうが俺やミキよりひどい怪我だろ」
レンジは痛みに耐えながら息を整え、広いホールを見回した。周囲には同じように倒れた仲間たちが何人も横たわっている。
負傷者は多い。
だが不思議なことに、すぐに射殺された者はひとりもいなかった。……“変異”さえ、起こしていなければ。
その混乱の中で、レンジの視線を最も捉えたのは――タツヤだった。
少年はそこに立ち尽くしたまま、微動だにしない。彼の瞳は、銃を構えて彼を狙うある職員をまっすぐ見据えていた。
「撃つつもりなら――ちゃんと当てなよな……頭でも、胸でも構わない。手加減は要らない」
彼は腕を上げ、ゆっくりと広げる。まるで自分を狙いやすく道を開くかのように。
バン!
再び銃声が鳴り響いた。だが弾はタツヤの左肩の付け根をかすめ――わざと外すように当たった。タツヤはわずかに体を震わせたが、倒れはしない。彼は目を伏せ、深く息を吸ってから、か細い声で言った。
「はあ……結局、『これだけ』でいいってことか」
そう言うと彼は静かに床に腰を下ろした。まるで徹底的に失望したかのように。ほどなくして、マイクの鋭い笛の音が再び鳴り渡った。
感染者たちの視線は一斉にステージへと向き、痛みによるうめき声があたりに満ちる。
司会の女性が再びステージに戻ってきた。今回は、彼女はぴったりとした黒のミッドナイト隊の服を着ている。新入隊員の試験のために編成された特別部隊――ツバメ隊だ。彼女は折りたたみ椅子を抱えてきて、堂々とステージ中央に腰を下ろした。
「さて――これから皆さんに、『最初のレッスン』を説明します」
彼女の声は明瞭で落ち着いているが、圧を含んでいた。
「先ほど私たちが皆さんに撃った弾は、『普通の弾』です。普通の人間や一般の動物を撃つためのものです。でも、皆さんはそうではないですよね?」
司会の女は嘲るような笑みを浮かべる。薄く口角を上げ、子どもをからかうような調子で続けた。
「よく聞いてくださいね、皆さん『黒物』の感染に対して免疫がある者に、普通の弾は効きませんよ」
彼女は言葉を区切り、次の一言をより際立たせるように静かに間を取った。
「黒物はね――“同じ黒物の素材で作られた武器”でしか殺せないの。さっき言った言葉、覚えてるかしら? “ヴァンパイア”よ――そう、“ヴァンパイア”なの」
そして彼女は、周囲のうめき声などまるで耳に入らないように、淡々と続けた。
「最初の試験で皆さんが証明すべきことは、“肉体の制御”です。心を落ち着けて、呼吸を整えて、体内の力を傷口に集中させるの。内側から“熱”を送り込むように――そうすれば、傷はゆっくりと癒えていきます。やってみてくださいね」
「たかが治癒の練習に、なんでこんなに撃つ必要があるんだよっ!?」
ステージ脇から怒号が響く。
「あら――いい質問ですね」
彼女は甘く微笑んだが、その声は氷のように冷たかった。
「だって――浅い傷じゃ“本当の力”は目覚めないもの。黒物の力は“死の際”でこそ目を覚ますのよ。これは本能――純粋な“生存本能”なの」
彼女は足を組み替え、さらに続けた。
「もし自分の傷を癒せないなら――その場で死ぬだけです。そして私たちは、何の罪にも問われません」
再び、彼女はわざと間を置く。ホールの空気が張りつめ、誰一人として息を呑む音すら立てない。
「忘れないでくださいね。本来なら“感染者”だと分かった時点で、私たちはあなたたちを“処分”できるの。だから――“生かしてあげている”と言っても、間違いではないでしょう?」
微笑みを崩さぬまま放たれる言葉は、聞く者の胸を刺すように痛い。
「あなたたちが死んでも、私たちは何も失わない。むしろ、“抗体薬”を節約できる分だけ助かるの。あの薬、高いのよ――知ってた?」
そう言って、彼女は喉の奥でくすくすと笑い、細めた瞳に冷たい光を宿した。
「あ、それから――」
彼女は軽く指を立てて言った。
「どの弾も“急所”には当てていませんからね? うちの職員は全員、“命に関わらない部位”だけを正確に狙えるよう訓練を受けているんです」
「……腹の真ん中が“命に関わらない”だと? ふざけんな……」
レンジがかすれ声で悪態をつく。手で傷口を押さえると、血がにじみ、額から汗が滲んだ。呼吸も乱れ始めている。
「それじゃあ――みんな、頑張ってくださいね」
ステージから響く明るい声。だがその明るさは、レンジにもミキにもオイダイにも、何の救いにもならなかった。
「……どうすりゃいいんだよ」
オイダイラが苦しそうに言いながら、自分の傷を押さえ込む。
「……言われた通りにやってみる?」
ミキが小さく答える。だがその声には迷いが滲んでいた。
「でも……どうやって?」
オイダイラは焦りを隠せず、顔色も悪い。
「……落ち着いて、呼吸を整えて……“熱”を傷に送る、だっけ」
レンジがはっきりと口にし、ふたりに言い聞かせるように繰り返した。それを聞いたミキとオイダイラは、冷たい床に仰向けになったまま、血に濡れた息を整えようとする。
「うっ……!」
ミキは目を固く閉じ、全身を震わせながら集中する。
「……全然治らない……」
「俺もだ……」
オイダイラが苦悶の表情で呟く。ふたりとも意識を集中させようと必死だったが、何の変化も起きない。
その間にも、周囲ではすでに“治癒”に成功した感染者たちが少しずつ立ち上がり、出口へと歩き始めていた。
そこには黒い制服の職員たちが待ち構え、“最初の試験”を突破した者たちを、静かに部屋へと導いていった。
タツヤも立ち上がっていた。彼の傷はすでに塞がっており、まるで撃たれた瞬間から自然に治っていたかのようだった。
今、彼は出口へと向かって歩き出している――その道筋は、レンジたちのすぐそばを通る。それに気づいたオイダイラが、最後の希望を掴むように声を張り上げた。
「タツヤ! どうやったんだ!? なんでおまえの傷だけ……!」
タツヤは足を止め、横目で彼らを一瞥した。その瞳には――明らかな“うんざり”の色が浮かんでいる。
「……ほんと、うるさいな。おまえら」
彼は淡々と吐き捨て、顔を背ける。
「難しく考えすぎなんだよ。“落ち着こう”なんて思うから、落ち着けないんだ。――『考えるのをやめろ』」
そう言い残すと、タツヤは三人の脇を通り過ぎていった。振り返ることもなく。
「……考えるのを、やめろ……か」
レンジがその言葉を小さく反芻する。そして、ゆっくりと体を横たえ、冷たい床に背中を預けた。
瞳が、静かに閉じられていく。
「おい、何する気だレンジ?」
オイダイラが驚いたように声を上げる。
「……タツヤさんの言う通りにしてみるだけですよ」
レンジは穏やかに答えた。
「考えてる時間なんてない。答えが出る前に――このままじゃ、本当に死にますから」
そう言うと、レンジは深く息を吸い込み、意識を集中させた。周囲の喧騒が遠のき、世界が静止したかのように感じる。
息を吸う――
深く。
吐く――
ゆっくりと。
体のすべてを静め、ただ“無”に溶け込むように。
……そして突然、傷のあたりがじんわりと温かくなった。
腹部全体に不思議な感覚が広がり、まるで身体そのものが
「自分はもう傷ついていない」
と信じ始めたようだった。
レンジは頭の中を空っぽにする――考えることをやめた。
「おい、レンジくん! ま、待てって! 弾が……!」
オイダイラの驚いた声が響く。
「弾が……レンジの傷口から押し出されてる!」
ミキも目を見開いた。二人の視線の先で、小さな弾丸が皮膚の下から少しずつ浮かび上がり、やがて完全に外へと押し出され――カラン、と床に落ちた。
「レンジくん……やったのね!」
ミキが感嘆の声を上げる。
「どうやったんだよ……!?」
オイダイラが息を呑む。
レンジは荒い息を吐きながらも、わずかに微笑んだ。傷はすでに塞がり、血の流れも止まっている。まだ体はふらつくが、その瞳には確かな光が宿っていた。
――“自分の力で生き延びた”という実感。
「ミキちゃん……オイダイラクん」
レンジはゆっくりと体を起こし、二人のほうを向いた。
「何も考えちゃだめです。体を“だます”んです――傷なんて存在しないって。心を静めて、思考を止めて、“治る”って信じてください」
ミキとオイダイラは顔を見合わせ、黙ってうなずくと再び床に身を横たえ、目を閉じた。
……すると、ほんのりとした温もりが二人の体の奥から広がっていく。焼けるように痛かった傷が、今はただ痺れるような感覚に変わる。
「な、なんだこれ……!」
オイダイラが驚きの声を上げ、自分の腹を見る。
「弾が……押し出されてる!」
「私の傷も……本当に治ってる……!」
ミキの頬を涙が伝う。声には安堵が滲んでいた。レンジは疲れたように、それでも満足そうに微笑んだ。
――確かに、もう“生き延びた”のだ。
「やった……!」
「「「俺たち、やったんだ!」」」
三人の声が重なり、広いホールに力強く響き渡った。
──ステージの前方。
黒い軍服を身にまとった司会の女が、ポディウムにもたれながら喉の奥でくすくすと笑っていた。その隣で腕を組んでいる部隊長も、満足げにうなずく。
「今年は……面白い子が何人かいそうね」
女の視線がホール全体をゆっくりと横切る。立ち上がっている者もいれば、必死に耐えている者、そしてもう動けない者もいた。
「この程度でも、生き残れない子がいるとはね」
口元に薄い笑みを浮かべ、彼女は静かに言葉を続けた。
「普通の弾すら耐えられないようじゃ、この先なんて――語るまでもないわ。“本物”を見られるのは、生き残った者だけ」
そして、彼女は小さく囁いた。
「さあ――この先、どうなるかしらね。……楽しみだわ」
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試験が終わると、レンジ、ミキ、そしてオイダイラの三人はそれぞれの休憩室へと戻され、休むように指示された。三人ともかなり疲れているようで、特に出血の影響で想像以上に体が弱っていた。部屋に入るなり、三人はふかふかのベッドに倒れ込むようにして横になった。
「次の選抜は二日後からだってさ。……少しは息抜きできそうだな」
レンジが枕に顔を埋めながらうめくように言い、背を向けているオイダイラに顔を向ける。
「それより、おまえさ。あんなに通過したがってただろ? 嬉しいんじゃないのか?」
オイダイラは何も言わず――ただ片手を上げて、中指を立ててみせた。レンジは思わず吹き出し、笑いすぎて涙がにじむ。
「オイダイラをからかわないでよ」
ミキが振り向いて止める。
「これ以上、私たちを疲れさせないで」
「こいつが変なんだよ。気にするだけ無駄さ……」
オイダイラがぼそっと呟き、わずかに寝返りを打つ。
「それより……たった一回目でこのザマだぞ。二回目はどんだけきついんだ? “能力の系統”で選ぶって聞いたけど、俺たち、まだ何の力もねえじゃん」
「うん……きっと大変だろうね」
ミキが不安そうに声を漏らす。
「でも、これが最後の選抜でしょ? 予備審査と本選抜を経て入隊が決まるんだし。……そういえば二人は、入りたい部隊とかあるの?」
「俺か?」
オイダイラは真剣な顔で自分を指差した。
「決まってんだろ、“ライオン隊”に決まってる! あの金色、威厳があって堂々としてるじゃねえか。あんなカッコいい部隊、他にねぇよ!」
そう言って得意げに笑い、今度はミキに向き直る。
「ミキちゃんは?」
「私?」
ミキは少し考え込んでから首を傾げた。
「うーん……どこでもいいかな。だって、自分の中の“黒物”がどんな系統か、まだ分からないし」
「俺もミキと同じかな」
レンジは天井の白をぼんやり見つめながら言った。
「どんな系統でも構わないよ……誰かを助けられれば、それで十分だろ?」
少し息を止めたあと、彼は穏やかに微笑んだ。
「でも、選べるなら……“クジラ隊”がいいな」
「はっ……おまえ、少年漫画の主人公かよ」
オイダイラが顔をしかめてそっぽを向く。
「つーかさ、自分で分かってんのか? おまえの台詞、昔の青春マンガみたいなんだよ」
「だって僕は――」
レンジは少し照れたように笑う。
「父さんみたいになりたいんです」
彼は前に差し出した自分の手をじっと見つめた。
「誰かを助けたい。息がある限り。死に近づくほどに、ようやく分かってきたんです。
“自分があと何日生きられるかなんて、誰にも分からない”って。もしかしたら明日、僕は死ぬかもしれない。だからこそ、この短い時間で――夢を全部、叶えたい。たとえ何を失うことになっても」
「……レンジくんなら、きっとできるよ」
ミキが優しく微笑んだ。その瞳は、いつもよりもずっと柔らかかった。レンジは少し照れたように彼女を見返す。
「じゃあ、ミキは? 何になりたいんだ?」
「私?」
ミキは小さく息をつき、自分の手を見つめながら呟いた。
「昔ね……教師になりたかったの。でも、今のこの状況じゃ――もう無理かもしれないね」
その声には、隠しきれない苦味が混じっていた。
「そんなこと言わないでください」
レンジは勢いよく上体を起こし、真剣な目で彼女を見た。
「僕、約束します! いつか必ず――ミキちゃんが“先生”になれるように、僕が踏み台になります!」
「……その前に、この病気を治してからにしてね」
ミキはふっと笑い、ため息を漏らした。
そして今度はオイダイラのほうを向く。
「じゃあ、オイダイラは? 何になりたいの?」
「はっ、そんなの決まってるだろ!」
オイダイラは胸を張り、誇らしげに言った。
「俺は“世界一のeスポーツチャンピオン”になるんだ! いつか日本トップのプロチームに入って、世界大会を総なめにしてやる!」
「そしたら、楽しみにしてますね」
レンジが笑って言う。
「へっ……そんなセリフ、わざわざ言わなくていいんだよ!」
オイダイラが顔を赤くし、むきになって叫ぶ。その様子にミキは思わず吹き出し、手をひらひらと振った。
「もう、二人ともやめなさいよ。ここは休憩室なんだから」
三人の笑い声が部屋に響く中――隅のベッドで横たわるタツヤだけは、ずっと静かだった。彼は目を閉じたまま、外の喧騒を完全に遮断している。まるで次の選抜に向け、すでに心と体を整えているかのように。
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