第3話 不運

カチッ。


「よし、会計は全部片付いた。レンジ、そっちはどうだ? 窓とブラインドは閉め終わったか?」


副店長のキムラが、現金の入った引き出しを“カチン”と音を立てて閉めながら言った。


「はい、もう全部閉めました!」

少年は自信ありげに振り返る。


「全部閉めちゃうと、外の音がまったく聞こえなくなるんですね」


「そうだな」

キムラは口元に笑みを浮かべ、店内を見渡しながら腰に手を当てた。


「ここ、防音性がやけにいいんだよ」

レンジは笑みを浮かべ、長すぎる茶色のコートの袖をたくし上げる。


「さ、帰るとしようか」

厚手のジャンパーを着たツーブロック頭の男が言う。


「お疲れさん」


「お疲れさまでした!」


そう言ってレンジはキムラに背を向け、裏口の方へ歩き出した。

帰り道となるその通路には、日用品や食料品の棚がずらりと並んでいた。


ガシャーン! ドンッ!


その瞬間、赤い液体にまみれた警官の体が、まるで投げ飛ばされたかのように店内へ吹き飛んできた。


自動ドアのガラスが粉々に砕け散り、棚が次々と倒れ込む。

男の体がぶつかった衝撃でネオンライトはチカチカと点滅し、電線がぷつりと切れた。


レンジは尻もちをつき、キムラはカウンター裏のタバコ売り場の陰へと身を隠した。


目を見開いたレンジは、恐怖と衝撃で声を失う。

足がすくみ、視界の先には、腹に大きな裂傷を負った警官がいた。

巨大な鉤爪で腹を貫かれたかのようなその傷から、血がどくどくと流れ出ている。



男は内臓がこぼれ落ちそうな腹を必死に押さえながら、血の海に沈み込んだ。

その手が、かすかに動く。――まるでレンジの足を掴もうとするかのように。



レンジは思わず後ずさる。

鼻を突く血の臭いに、吐き気が込み上げる。

それでも唾を飲み込み、必死に耐えた。



「な……なんだ、これは……」

キムラが声を震わせながら呟く。



「グルルル……」



狼のような低いうなり声が響いた。

その音を聞いた瞬間、二人は悟る。――このままでは危ない、と。


キムラが走り出した。


店内で唯一近くにあるトイレ、そこが今の彼らにとって唯一の避難場所だった。

中年の男はトイレに飛び込み、扉をしっかりとロックする。



レンジもすぐに後を追った。

だが、その足はキムラよりも一歩遅かった。



ドン! ドン! ドン!



「開けてください! 僕も中に入れてください! 助けてください!」

レンジは必死に叫びながら、トイレの扉を力いっぱい叩いた。



「キムラさん、開けてください! 開けて……っ、その音……もうすぐ来ます!」

焦燥と恐怖が入り混じった声が響く。



「すまない、レンジ……」


背中で扉を押さえながら、キムラは嗚咽まじりに答えた。



「俺にはハナコがいるんだ……あの子には母親がいない。だから、俺は…..まだ死ねないんだ。もし俺が死んだら、あの子はどうすればいい……ごめん、ごめんな……レンジ……」



その言葉を聞いた瞬間、レンジの胸に絶望と失望が広がった。

尊敬していた上司からの裏切り――その重みが、心を押し潰していく。



「でも……キムラさん……じゃあ僕はどうすればいいんですか! 僕だって死にたくない! 開けてくださいよ、お願いです!」



ドン! ドン! ドン!



返事は、ない。



レンジの目に涙が滲む。

唇と手が小刻みに震え、怒りと恐怖が入り混じった。


尊敬していた大人に見捨てられた その現実が、胸を締めつける。

言葉にならないほどの怒りが、喉の奥で渦巻いた。



そんな絶望の只中で、低いうなり声が近づいてくる。

レンジは悟った。ここにいたら、死ぬ。


しかし、店の入口にはもう戻れない。

残された道はただひとつ。

それは、二人がいつも帰りに使っていた裏口へと這って向かうことだった。



だが、そこへ続く通路には、倒れた棚がいくつも道を塞いでいる。

進むのは容易ではない。


それでも、レンジにはもう――他の選択肢など残されていなかった。


カチャッ。


足音が、床に散らばったお菓子の袋を踏みつけた。

その瞬間、レンジは反射的に身をかがめ、床に伏せて這い出した。



息を殺し、静かに逃げる。

ちらつく照明の明滅が、彼にとって唯一の味方だった。――この暗さなら、見つからずに済むかもしれない。



這い進む途中、レンジの視界の端に黒い毛むくじゃらの脚が映る。

血にまみれた獣の足。

それがゆっくりと、彼のすぐ横を通り過ぎていく。



レンジは目を見開き、慌てて口を手で押さえた。

心臓が暴れ出す。胸の奥から飛び出しそうなほどに。



一歩、また一歩。



彼はできる限りゆっくりと、静かに身体を動かし、狭い棚の隙間を抜けて裏口を目指した。



だが、震える身体は思うように動かない。

呼吸も荒くなりすぎて、喉が焼けつくように痛む。

それでも口呼吸で息を整え、音を立てまいと必死に耐えた。



ガリッ――。



突然、何かを噛み砕くような音が響き、レンジは思わず身を震わせた。

怪物が、すぐ近くで立ち止まったのだ。



(やばい。)



本能が警鐘を鳴らす。

レンジは動きを止め、周囲を伺いながら身体の力を抜いた。


その時。


「ゴホッ、ゴホッ!」


トイレの中から、咳き込む声が響いた。

キムラの声だ。



その瞬間、怪物の頭がゆっくりとそちらを向く。

扉一枚 それだけが、今キムラを守っている。

だが、あの薄い扉がこの化け物の爪を防げるはずもない。



レンジは唇を噛みしめた。

あの人は、自分を見捨てた。

それでも 目の前で八つ裂きにされる姿なんて、見たくなかった。



どうすればいい。



少年は震える手を握りしめ、必死に考えを巡らせた。


怪物がキムラの方へ歩いていく、その一瞬を逃さず、レンジは決断した。

倒れた棚の隙間から身をひねり出し、全力で裏口へ走る。



生き延びるために――ただそれだけを考えていた。

勢いよくドアノブをつかんで開け放つ音が、静まり返った店内に響く。



その音があまりにも大きかった。



怪物の視線が、ぎょろりとこちらへ向いた。

レンジは振り返らずに走った。

恐怖に背中を押されるように、ただ必死に。



体が小さいぶん、棚と棚の狭い隙間をすり抜けることができる。

通路を抜ける途中、冷蔵庫やロッカーを手当たり次第に倒しながら進んだ。



少しでも奴の足止めになればと、それだけを願って。



裏口を飛び出すと、夜の冷たい空気が肌を刺した。

店の裏手にある木陰の下、いつもの自転車が目に入る。

震える手でコートのポケットを探り、鍵を取り出した。



だが、焦りのせいで指が滑る。

鍵が地面に落ち、金属音が響いた。



「くそっ……くそっ!」



レンジは悪態をつきながら鍵を拾い上げる。


ふと顔を上げると、視界に飛び込んできた光景に息を呑んだ。

道路と駐車場一帯に、警官と不良たちの肉片が散乱している。



看板には、血まみれの腕のようなものが引っかかっていた。


「……うそ、だろ……!」


その瞬間、背後から重い音が響いた。


ガンッ。


振り返ると、店の奥から黒い影が姿を現す。

感染者――黒物病に侵された者だった。



思考する暇もなく、レンジは自転車に飛び乗る。

ペダルを力いっぱい踏み込み、坂道を一気に駆け下りた。



幸いにも、あのコンビニは坂の上に建っていた。

それが、レンジにとって唯一の救いだった。

勢いをつけて自転車を漕ぎ、坂道を一気に駆け下りる。



「ミッドナイト隊に知らせないと……でも、どうすれば……!」



初めて見る黒物病の感染者――その恐ろしさは想像をはるかに超えていた。

逃げながら、思わず後ろを振り返る。



「……なんだよ、あれ……!」



月明かりの下、追ってくる影が見えた。

それは狼のような頭を持ち、全身を黒い毛で覆われた化け物。

走り方はまるで人間のようで、赤い目が月光を反射して光っている。

背丈は三メートル近くもあり、しかも――頭が三つあった。



その三つの頭が、獰猛な唸りを上げながらレンジに迫ってくる。


「そっちだ……!」


彼は叫び、ハンドルを切って細い裏路地へと飛び込んだ。

暗く狭い路地は、怪物の巨体では通り抜けるのが難しい。

それでも油断はできない。



ペダルを踏み込みながら、誰かがこの異形を見つけてミッドナイト隊に通報してくれることを祈った。



(誰か……誰か、早く……!)



息を切らしながら、震える声でつぶやく。



「もう少し……もう少しで……助かる……!」



路地を抜けた瞬間、レンジは振り返った。

化け物はやはり、狭い路地に引っかかって動けずにいる。



頭上を走る電線や、絡み合ったケーブルがその巨体の進行を邪魔していた。

人ひとりが通るのもやっとの道だ。あの大きな体で抜け出すのは、まず不可能だろう。



その光景を確認すると、レンジはすぐにペダルを踏み込み、薄暗い道を走り抜けた。

家へ――ただ、それだけを考えて。



心臓が激しく脈打ち、息が荒くなる。

全力で自転車をこいで、ようやく自宅の前までたどり着いた。


しかし、そこで足が止まった。



窓のカーテン越しに、母の姿が見えた。

母は義父の腕の中で微笑み、弟を抱きながら、薄明かりの下で静かに踊っていた。

あたたかな光と、穏やかな笑顔。



そこには“幸せ”しかなかった。



(もし自分がいなければ、この家族はずっとああして笑っていられるのかもしれない。

そんな考えが、一瞬で胸を締めつけた。)



レンジは後ずさりし、静かにハンドルを握り直す。

ここにいることで、逆に家族を危険にさらすかもしれない。

もう帰る場所はない。



彼は再びペダルを踏み込み、近くの小さな公園へ向かった。

ベンチに腰を下ろし、深く息を吐く。

冷たい夜風が頬をなでる中、震える手でポケットから携帯電話を取り出した。



「……ミッドナイト隊に、連絡しないと……」

.

.

.

「……はい、そうです。僕、この目で見ました。服にもまだ血がついてるんです……」


「わかりました。すぐにその地域へ討伐隊を派遣します。ご協力ありがとうございます」


「お願いします……どうか、早く……」


通話を終えたレンジは、携帯をポケットにしまい込んだ。

胸の奥が重く、何も考えられない。


こみ上げてくるものを抑えきれず、気づけば涙が頬を伝っていた。



人目なんてどうでもよかった。

ただ、声を殺して泣いた。

止まらない涙を手の甲で拭いながら、かすれた声で呟く。



「どうして……どうして、こんなことに……」



頭の中がぐちゃぐちゃだった。


恐怖、悲しみ、裏切り、怒り――。


全部が一度に押し寄せてきて、心がついていかない。


「ノワールさん……外でどうやって生きてるんですか。こんなに寒いのに……」


「僕、少しだけ、あなたがうらやましいですよ」


自嘲気味に笑って、空を見上げた。

白い吐息が夜気に溶けて消える。


この街のどこにも、自分の居場所なんてないような気がした。

帰る家があるのに、帰りたくない。


家族と呼ぶ人たちがいても、心はその輪の外にある。

“家”という言葉を口にするたび、胸が苦しくなる。


あそこはもう、自分の帰る場所ではない。


ただ、居候しているだけの場所――そう感じてしまうのだった。


「……それとも、今日はホタルくんの家に泊めてもらおうかな。

このことをタグで送ったら、きっと助けてくれるはず……」


グルルルルッ!!


聞き覚えのある低いうなり声が、夜の静寂を切り裂いた。

レンジは反射的に顔を上げる。


「まさか……追ってきたのか……!?」


息を整える間もなく、あの音がすぐ近くで響いた。

胸の奥が冷たくなり、喉がひきつる。


茶色のコートを羽織った少年はごくりと唾を飲み込み、

震える足で立ち上がり、左右を見回した。

だが、逃げるよりも早く。



右手の茂みが大きく揺れ、

黒い影が飛び出してきた。



三つの頭を持つ狼の化け物が、巨大な鉤爪を振りかざしながら襲いかかる。



「――っ!!」



体が動かない。

レンジは目をつぶり、頭を抱えてしゃがみ込むしかなかった。


「やめろっ!!」


ガァンッ!!


鋭い金属音が空気を裂いた。

恐る恐る目を開けると、

目の前に全身を黒い戦闘服で覆った男が立っていた。



まるで忍者のような装束。

顔には青白い光を放つマスクをつけ、

そこには「Ͷ」の形をした紋様が輝いている。



胸の左には、同じ色に光る円形のクジラのバッジ。

男は鋭い刃を構え、

三つ首の狼の爪を受け止めていた。



火花が散り、鉄と爪がぶつかり合う音が夜の公園に響き渡った。



「大丈夫か」



男の声が、機械を通したような低い音で響く。

視線は一瞬たりとも敵から離さない。



「ぼ、僕は……大丈夫です!」


「そうか。なら、すぐ逃げろ。こいつは力が強すぎる……長くはもたない」


「は、はいっ!」


レンジは慌てて返事をし、身を翻そうとした。

だが、運は彼に味方しなかった。



三つ首の化け物のうち、一つの頭がミッドナイト隊員を睨み、

残りの二つが、鋭くレンジを捉える。

少年が逃げようとするのを見て、獣の体が怒りに震えた。



「グオオオオオォォッ!!」



耳をつんざく咆哮と共に、

左の腕が公園の電柱をわしづかみにする。

鋼鉄の柱が根元から引き抜かれ、

次の瞬間、振りかぶられてレンジの方へと投げつけられた。



ミッドナイト隊員の目が一瞬、驚愕に見開かれる。

助けに動こうとした――だが、間に合わなかった。




それは、あまりにも速すぎた。







リライト中です。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る