わたしの未来


 なじみのない名古屋の街の中で、どれくらいの間、声を殺して泣き続けていたんだろう?


「…………?」


 気がつくと、バッグの中の携帯が着信音を鳴らしていた。取り出して、画面を確認してみると、かけてきたのは数ヶ月ぶりの亮太郎で、安心感のある亮太郎の声なら、聞きたいと思えた。


「亮太郎?」


『今、どこにいる?』


「えっ?」


 一瞬、質問に面くらう。


「えーと……名古屋、だけど」


『名古屋のどこ?』


「どこって、名古屋駅の近く」


 いきなり、何?


『店の中? 外? 近くに何が見える?』


 まるで、この辺りにいるような口ぶり。


「だから、店っていうか、本当に駅の近く。ロータリーのところ」


『ロータリーね。待ってて』


「ちょっと、亮太郎?」


 あわただしく、電話が切れた。いったい、何を考えてるの? わけがわからず、息をついたところで。


「花……!」


「…………!?」


 息を切らして、亮太郎がこっちに走ってくる。


「よかった、会えて」


「な……何やってるの? なんで、こんなところにいるの?」


 わたしの両腕をつかみながら、亮太郎が息を整えている。全く状況が理解できない。


「絶対、いると思って」


「だから、どうして……」


「今日は、花の二十歳の誕生日じゃん。花の考えてることくらい、わかるよ」


 つかんだ腕を離さずに、亮太郎が顔を上げた。不覚にも、亮太郎の前で、また涙が出そうになったけれど。


「彼女は、どうしたのよ? 彼女を放っといて、わたしのためにこんなところまで来るの、おかしいでしょ?」


 そう。どう考えてみても、素直に感謝したり、よろこんだりできる状況ではない。


「そんなの別れたよ。最初から、昨日までに別れるつもりだったんだから」


「な……」


 信じられない。


「いいんだよ。それでもいいっていう子たちとしか、つき合ってきてないんだから。いつだって、俺は花のことしか考えてない。今日まで待ってるって、俺言ったじゃん」


「何? それ。めちゃくちゃ」


 あきれながらも、涙が抑えきれなくなった。気づかれたくなくて、顔をそらすと。


「結婚しよう、花。大学卒業したら、すぐ」


「えっ?」


 耳に入ってきたのは、さすがに耳を疑う言葉。


「また、高校のときの朝倉みたいなやつに引っかからないか、心配だよ。適当なところに就職して、今度は水沢っていう名字の腹黒い男に騙されたりとか」


「わたし、そこまでバカじゃないよ」


 さすがに、懲りてるんだから。


「いや、危ないよ。危なっかしいよ。響くんがだめなら、花は俺じゃないと無理だ。はっきり、響くんには断られたんだろ?」


「それは……」


 改めて、数時間前のできごとが現実味を帯びてきた。決して、響くんの気持ちが変わることはない。行き場のない、わたしの響くんへの想いだけが、そのまま……。


「花」


 子どもの頃は泣き虫で、いつもわたしのあとを追いかけてきた亮太郎が、今はわたしの涙をぬぐってくれる。


「結婚の話はともかく、近くのホテルに部屋取っておいたから。今日はそこに泊まって、明日ひつまぶしでも食べて帰ろう」


「え……?」


「いやいや、ふたつだよ? 部屋、ふたつ! ビジネスホテルだし」


 わたしの反応に、あわててる亮太郎。そんな亮太郎を見て、少し落ち着きを取り戻せた。


「当たり前でしょ? 亮太郎と同じ部屋になんて、泊まるわけない」


「だよね、わかってた。でも、できたら」


「できたら?」


 お願い口調の亮太郎に、聞き返してみる。


「ホテルまで、手だけはつながせて」


 この状況で、断れるわけないじゃない。何も言わず、わたしが差し出した右手が、亮太郎に握られる。そのまま、うれしそうな亮太郎と歩き出した。思いのほか、その握られた亮太郎の手が大きくて、力強くて、温かくて —————。


「……それにしても、意外とたらしだったよね、亮太郎。何? さっきの。期間限定でいいっていう人たちとだけ、つき合ってきたとかいうの」


 なんだか、恥ずかしくなって、憎まれ口が出てきてしまう。


「ああ、ね? 告白してきてくれた子に試しに聞いてみたら、何人かの子が承諾してくれて。言ってみるもんだよね。結局、みんな何ヶ月かで別れちゃったけど」


「それ、わたしがあんなふうに言ったからじゃなくて、都合よく遊びたかっただけなんじゃないの?」


 そんな、抜けてるように見せかけて。


「え? もしかして、妬いてくれてる?」


「調子に乗らないで」


「だよね」


 わかりやすく、肩を落とす、亮太郎。


「変わってるよね、亮太郎」


 大学に入った頃からは、わたしもさすがに認めざるをえなくなっていた。亮太郎が男女問わず人気があって、わたし以外の人でも、いくらでも選びようのある立場だということ。それなのに、いつまでも響くんにしか目を向けることができない、こんなわたしに固執し続けてくれるなんて。


「花に言われたくないよ」


「たしかに」


 それだけは、亮太郎が正しいかも。


「やっと笑ったね、花」


 亮太郎のくせに。ずっとそんなふうに思っていた、わたしの方が進歩がなくて、現実から目を背けていただけだったんだ。






 亮太郎とホテルの部屋の前で別れて、亮太郎が取ってくれた部屋に入ると、響くんにメールを送った。亮太郎が迎えにきてくれていたから、明日のお昼頃まで少し観光して、それから帰りますって。


 純粋に、心配しているはずの響くんを安心させたかったからか、見栄を張りたい気持ちもあったからなのか、自分でもわからない。


 ただ、そのメールを手放しでよろこんでくれたことが伝わる、響くんからの返信がすぐに返ってきたことに、わたしはまた傷ついて。そして、わたしは一生このままなんじゃないかと、一晩中泣き明かした。


 次の日、亮太郎は、わたしの泣き腫らした目のことには触れずに近くの動物園に連れていってくれて、お昼には、高そうなひつまぶしをごちそうしてくれたから、城好きな亮太郎のために名古屋城にもつき合ってあげた。


 東京に帰ってきてからも、ちょくちょく家に来るようになった亮太郎は、もちろん、お父さんにもお母さんにも歓迎されて、お父さんにいたっては、わたしをもらってやってくれと本気で頼み出す始末。


 そんなふうに、わたしのそばに亮太郎がいることが当たり前みたいになっていった頃、ちょっとした転機となるできごとがあった。






「嘘……花の名前、呼ばれなかったね」


 優勝できたら、留学も考えてみようと密かに考えていたピアノのコンクールで、入賞すらできなかった、わたし。お母さんは残念がっていたけど、自分の中では納得のいく結果だった。審査員の耳も、節穴ふしあなじゃない。


「情けない」


 その帰りの亮太郎も交えた食事の席で、ため息をついたのは、お父さん。


「響が聴いてないと、ピアノもろくに弾けないのかよ? あの程度の演奏で、留学資金なんか出してやらないからな」


 悔しいことに、何から何まで見透かされていた。


「ちょっと、遊佐くん? 花は、たくさん練習してたし、頑張ったよ。そんな言い方……」


「いいの。お父さんは、間違ってない」


 響くんみたいな的確な指摘はできなくても、お父さんの演奏の出来に対する評価は確か。お母さんは演奏じゃなくて、曲そのものしか聴いていないから。と、そこで。


「べつに、いいじゃないですか」


 いつもの調子で口を開いた亮太郎に、視線が集まる。


「気が済むまでピアノ弾きなよ、花。留学なんて、しようと思えば、いつでもできるよ」


「…………」


 気が済むまで。そうだ。亮太郎は、このわたしの気が済むまで、何でも待ってくれた。


「本当、花を頼むよ、亮太郎。どう考えても、花を任せられるのは亮太郎しかいない」


「俺の方は、全然いいというか。むしろ、花以外に誰も考えられないんで」


「ええっ? 亮太郎くん、そうだったの?」


 そんな会話を、複雑な思いで聞いていた。






「……調子いい」


「え? 俺のこと?」


 店を出て、わたしが嫌みっぽくつぶやいたら、きょとんとしている亮太郎。


「わたし以外に考えられないなんて、よく言う」


「どうして? 本当のことだよ」


「わたし以外の何人もと、つき合ったくせに」


「それは、花が望んだから」


「じゃあ、わたしがビルの屋上から飛び降りてって言ったら、飛び降りるの?」


 予想どおりとはいえ、コンクールで結果を出せなかったことで、神経が参っていたのかもしれない。お父さんにも痛いところをつかれて、亮太郎相手に感情的になってしまう。


「飛び降りないよ。そんなことしたら、死んじゃうもん」


 亮太郎も亮太郎で、いつもと変わらない態度だし。


「ほら。じゃあ、やっぱり、好きでつき合ってたんだ」


 本当は嫌われたくないのに、口から出てくるのは、亮太郎の気分を悪くさせるようなことばかり。


「死んだら、花が困ってても、助けられないじゃん」


「そんな、都合のいい……」


 わたしは、響くんが好きなの。わたしが好きなのは、響くんだけなの。でも、こんなわたしと一緒にいてくれる亮太郎がいなくなったらと考えただけで、怖くなった。


「花?」


「何でもない。何でもないよ」


 そんな弱気な自分を振り払うように、首を振った。でも、この先、耐えられる? わたしの就ける仕事なんて、たかが知れてる。ピアノだって、どんなに練習しても、これ以上伸びないかもしれない。そんな何もない状態で、響くんが家庭でも持って、一人取り残されたら……。


「花? 亮太郎くん?」


「あ、すみません。ちょっと、先に行っててください」


 声をかけてきた、お母さんとお父さんに頭を下げてから、亮太郎がわたしに向き直る。


「俺、名古屋で言ったこと、本気だよ。卒業したらすぐ、花と結婚したいって」


「おかしいよ、亮太郎」


 わたしなんて、何もいいところがないのに。何より、亮太郎に対して、可愛いげがない。


「響くんのことも、ずっと好きでいればいいよ。どうせ、忘れられるわけないんだから。ね? やっぱり、俺じゃないと無理でしょ?」


「わたしは……」


 今までの自分を思い返した。


「亮太郎に、何もしてあげられてない。振り回すばっかりで」


「そうでもないよ。たいてい、俺が勝手にやってるだけじゃない?」


「わたしといても、亮太郎にいいことが全然ない」


「花になら、子どもの頃、さんざん助けてもらったよ。今は、花が笑ってるだけでいい」


 また大人っぽくなった気がする、亮太郎。就職したら、また違う女の人たちと知り合い、同じ目的を持って、一緒に仕事をしているうちに、わたしのことは忘れちゃうかもしれない。いつまでも、待たせてばかりのわたしなんて。


「……亮太郎」


「ん?」


「わたし、世界でいちばん、響くんが好きなの」


「うん。よーく、知ってる」


 おかしそうに、亮太郎が笑う。


「何があっても、それは揺らぐことがない。でも、亮太郎のことも……多分、好きなの。その次くらいに」


「そうだったの? それは、知らなかった」


「いちばんに好きなわけじゃないくせに、亮太郎が他の人とつき合うのが嫌でたまらないの。どうしたらいいのかな」


「え……」


 ぽかんとしてる、亮太郎。


「や、えっと」


 気まずい思いで、視線を泳がせていると。


「可愛い、花」


「…………!」


 突然、亮太郎に抱きつかれた。


「ちょっと……! 見られちゃうってば。お父さんとお母さんに」


「全然いい。花がそんなふうに言ってくれるなんて、夢みたい」


「亮太郎……」


 急に、今日までのことが心に押し寄せてくる。つらかったの。響くんを好きでいることが、すごくつらかった。


 小さいときは、響くんに会える日を指折り数えて、幸せな気持ちで待っていた。そんな時期が、永遠に続いてくれればよかったのに。でも、時が経つにつれて、苦しさだけは増していくばかり。今、響くんとの未来なんて、何も見えない。


「だから、言ってるじゃん。好きなだけ、花は響くんを好きでいればいいって。俺、花の中の響くんもひっくるめて、花をもらうから」


 相手が亮太郎だと、未来がすぐそこに浮かんでくるの。普通のマンションの部屋で、わたしが亮太郎の帰りを待っていて、わたしが作ったごはんを食べて、それから……。


「本当に、響くんもいていいの?」


「いい……!」


 亮太郎に、体を抱き上げられた。きっと、すごく、すごく、響くんもよろこんでくれるんだろうな。そう考えたら、やっと自分の居場所が見えた気がした。


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