わたしの迷走
あれから、響くんが前みたいに連絡をくれることはなくなった。わたしの方から連絡しても、必要最低限の返事しかもらえない。後悔しても、しきれない。だけど……。
「花」
廊下から、わたしを呼ぶ亮太郎の声。
「電子辞書、借してくれない? 持ってきたつもりだったのにさ、忘れちゃって」
「いいよ。はい」
相変わらず、ぼさっとしてる。一度、お母さんが入院したからって、急にしっかりするわけでもないか。息をついて、わたしの電子辞書を手渡す。
「助かった。ありがとう。また、昼休みに返しにくる」
「いつでもいいよ。今日は使わないから」
それだけ伝えると、自分の席に戻った。そのようすをにやにやしならがら見ていたのは、友達の
「最近、よく来るよね、亮太郎先輩。やっぱりねー。花が男子と遊びに行かないの、亮太郎先輩がいたからか」
「べつに」
バカバカしくて、反論する気にもならないけれど。
「いいなあ。亮太郎先輩が幼なじみなんて。人気あるよね、亮太郎先輩」
「えっ?」
そういえば、お母さんも言ってたっけ。亮太郎が、女の子に騒がれてそうとか。
「亮太郎なんて、頼りなくて。年上なのが信じられない。さっきだって、忘れものを……」
「はいはい」
楓が、ひやかすような目で見てくる。
「今日もカラオケ誘おうと思ったけど、やめとくわ。亮太郎先輩によろしくー」
「ちょっと、楓」
人の話も聞かないで……と、ふと、窓の外からの肌寒い風を感じた。気づかないうちに、季節は移ろっていく。
授業が終わると、いつものように図書室に向かった。無意識に、家に帰るのを避けているのかもしれない。あれから、お母さんへの複雑な感情を抱き続けている自分がいる。お母さんは、何も悪くないのに。
でも、響くんも響くんだよ。亮太郎のお母さんみたいな人なら、まだわかるけど。よりによって、わたしのお母さんを想い続けていたなんて、いまだに理解できない。お母さんなんて、空気も読めないし、失敗ばかりして。何より、お父さんと結婚してて、わたしという子どもまでいるじゃん。
ううん。多分、ずっと予感はしていたし。本当は、響くんが誰を好きでもいいから、今までみたいな関係でいたかったのに。
響くん、わたしのこと、どう思ったんだろう? あきれたかな。変な子だと思ったかな。そうだよね、連絡してもらえなくなった時点で、もう答えは出てる。わたしと関わるのが、面倒になったんだ……と、そのとき。
「響、こんなところにいたのかよ?」
「…………!」
本棚の奥から聞こえてきた声に、体が反応した。参考書を置いて、ようすをうかがうために、さりげなく立ち上がると。
「OBの先輩来てるから、顔出さないとまずいって」
「いいよ。会いたい人なんかいないし、今日は休む」
弱りきったっぽい相手に、そんなマイペースな受け答えをする、響と呼ばれた人。この感じも、なんとなく……。
「そう言うなよ。俺が怒られちゃうよ」
「いいから、行けって。俺のことは、適当に理由つけとけよ」
そこで、本棚の陰から姿を現した、その人と目が合った。3年生? 少し冷たそうな鋭い目つきに、赤い髪。そういえば、中学生くらいのときの響くんも、髪が真っ赤だったと聞いたことがあったっけ。もしかしたら、こんな感じだったのかな。
そんなことを考えて、視線を外せずにいたら、その人がふっと笑って、わたしに口を開きかけた。その瞬間。
「花……! ここにいたんだ?」
図書室に入ってきて、わたしを確認するなり、声を上げた亮太郎。周りの人から、迷惑そうに顔をしかめられてる。わたしも息をついた。
「あっ、と……すみません」
肩をすくめたあと、亮太郎が小声で続ける。
「探しちゃったよ。電子辞書、返さなきゃと思って」
「言ったじゃない。いつでもいいって」
そんな亮太郎にあきれながら、一応電子辞書を受け取って、再び視線を戻しても、さっきの人はすでに姿を消していた。亮太郎のせいだ。さっき、たしかに、わたしに何か話しかけようとしていたのに。
「亮太郎、さっきの人」
「え?」
きょとんとする、亮太郎。
「髪の赤い……さっき、ここにいた人。3年生じゃない? 名前、知らない?」
「ああ、あれ。俺の隣のクラスの
名前を口にしてから、はっとしたようすで、わたしを見た。
「浅倉 響……」
その名前を、ゆっくりと反芻してみる。響。響くん。
「花?」
「わたし、もうちょっと勉強していくから。じゃあね」
けげんそうな表情の亮太郎を追い返して、席に着いた。浅倉先輩、さっき、わたしに何を言おうとしたの?
「遊佐 花ちゃん」
「え……?」
校門の前で聞き覚えのある声に呼ばれたのは、次の日の朝だった。
「昨日、会ったよね。図書室で」
「どうして、わたしの名前を……」
緊張して、声が上ずってしまった。だって、そこに立っていたのは、ずっと頭から離れなかった浅倉先輩だったから。
「花ちゃんのことなら、前から知ってる。なんでかわからないけど、気になってた」
「そ……」
頭が真っ白になる。面と向かって、こんなことを言われるのは初めてだった。
「加瀬とは、よく一緒にいるけど、つき合ってるわけじゃないんでしょ?」
「もちろんです」
そこは、即答する。
「じゃあさ、放課後話そうよ。教室に迎えに行くね」
「あ……はい」
自分でもわけがわからないまま、首を縦に振っていた。わたしも、浅倉先輩のことをもっと知りたくて。
「何? あれ」
教室に入ると、微妙な表情の楓が待ち構えていた。
「何が?」
「さっき、校門の前で浅倉先輩と話してたでしょ? 評判悪いよ、あの先輩」
「評判とか、関係ないから」
響くんも昔は敵が多かったらしいし、誤解されやすい人、わたしは嫌いじゃない。
「あんな人より、亮太郎先輩の方が全然いいじゃん」
「そんなこと、わからないでしょ?」
「何があっても知らないからね」
あきれたようすで、楓は自分の席に着いてしまったけれど……だって、苦しいんだもん。自分でも、どうしたらいいかわからないんだもん。
「花ちゃん」
約束どおり、わたしの教室の前まで来てくれた、浅倉先輩。こっちを見て、にらんでいる楓に気づかないふりをして、廊下に出る。
亮太郎のことは今日も昼休みに見かけたけれど、亮太郎だって、派手めな女の先輩とふたりで、こそこそ親密そうに話なんかしてたんだから。
「もしかして、軽音部なんですか? 先輩」
よく見たら、浅倉先輩が背中にしょっていたのは、ギターかベースのケース。
「そうそう。これ、ギター」
「そう……なんですね」
響くんと同じ。名前も、髪の色も、弾いている楽器まで。
「そうだ。先に部室つき合ってくれる? これ、置きに行きたいから」
「はい」
なんだか、目の前にいるのが、あの響くんのような錯覚を起こしてきた。神様がわたしをかわいそうに思って、この人と会わせてくれたのかもしれない。
「ここ。入ってみる?」
「いいんですか?」
部室というより、機材庫のような離れの部屋。家にもあるギターは見慣れているけど、実際の練習に使うような機材は目新しく、新鮮。
「これとか、まだ使えるんですか?」
中を見回してみると、ほこりをかぶった状態で壁に立てかけてある、かなり古そうなキーボードなんかもある。やっぱり、わたしは自然に鍵盤に目が行くし、響くんも興味を持ちそうな……。
「そんなことよりさ」
「はい?」
突然、壁に体を押しつけられて、目を見張る。
「な……何するんですか?」
今、キスしようとした? とっさに浅倉先輩の体を押し離した、次の瞬間には。
「きゃ……!」
腕をつかまれて、狭い床に押し倒されていた。
「何って、花ちゃんがしたいと思ってること?」
「な……」
何? この人。どうして、響くんに似てると思い込んでいたんだろう? 名前以外、同じところなんかひとつもないのに。気持ち悪い。こんな人が響くんと同じ名前でいることにすら、嫌悪感を覚える。
「俺のこと、昨日も今日も物欲しそうな目で見てたじゃん」
「や……!」
あまりに強い力で、腕を振りほどけない。嫌だ。わたし、こんな人に、こんなところで……と、その瞬間。
「花!」
「え……?」
ドアの開く音と亮太郎の声がしたと思ったら、いつのまにか、浅倉先輩の体は亮太郎に組み敷かれていた。
「何だよ? いきなり、何するんだよ?」
「何する、じゃねえよ」
こんな亮太郎、見たことない。押さえつけられた浅倉先輩も、亮太郎の気迫に体がすくんでいるようだった。
「花には、二度と手を出すな。次は、ただじゃおかない」
「わ……わかったから、離せよ」
虚勢を張りつつ、逃げるように去って行った、浅倉先輩。助かった。
「……花」
亮太郎が、大きくため息をつく。
「ここに連れ込んで女に手出すのは、あいつのいつもの手口なんだよ。クラスの女子に教えてもらえなかったら、どうなってたか。あんな男にふらふらついていくなんて、何考えてるんだよ?」
「…………」
何も返せない。今のわたしには、返す気力もなくて。
「あ、いや。ごめん。強く言い過ぎ……」
「だって」
ずっと抑えていた涙が、あふれてきた。家では、泣くこともできない。
「嫌われちゃったんだもん。完全に」
「花……」
一年に一回、何があっても必ず来てくれた、先週の日曜日のわたしのピアノの発表会。それだけは聴きにきてもらえるんじゃないかと淡い期待を抱いて、勇気を出して送ったメールの返信が、『ごめん、行けない』の簡単な一言で……。
「送ってくよ。帰ろう」
亮太郎の言葉に、素直にうなずくしかない。今回ばかりは、亮太郎がいなかったら、大変なことになっていたから。
「ただいま」
亮太郎のおかげで、家に着く頃には気持ちも落ち着いていた。お茶でも出すつもりでいたんだけど、お母さんがまだ心配だからという亮太郎とは、マンションの前で別れて。
玄関のドアを開けると、こんな時間に帰ってきているのはめずらしい、お父さんの靴が目に入った。亮太郎が、バンドをやっている人なんて、めちゃくちゃに決まってるとか言っていたっけ。響くんがあんなゲスいことをしていたはずないけれど、お父さんなら考えられなくも……。
「あ、花。おかえりなさい」
わたしに気づいて、うれしそうに出迎えてくれる、お母さん。
「今日は早かったね。お父さんもめずらしく早上がりだったから、みんなで食べよ?」
「うん」
そのとき、棚の上の充電器につながれていた、お父さんのiPhoneから、メッセージの着信音。何も考えず、自然に目が向いてしまった。
「あ……」
響くんからだ。画面に表示された、『早く』という短い文句。
「お父さん。さっき、着信音鳴ってたよ」
「え? ああ」
何も見ていないふりをして、お父さんに iPhoneを差し出すと、PCで仕事の後処理っぽいことをしていた手を止めて、内容をチェックしている。内心、ドキドキしながら、お父さんのようすをうかがっていたら。
「あー……そうだった」
そう小さくつぶやいて、iPhoneを操作し出した。なぜか、わたしの方をうかがっている気がする。
「何? 女の人から?」
「あ?」
「興味ないから、隠す必要ないよ」
そんなことを言いながら、画面を盗み見た。すると、そこには……。
「わたし、着替えてくる」
「うん。待ってるよ」
楽しそうに料理を並べている、お母さんを横切って、自分の部屋に駆け込んだ。ちらちと見えた、先週のわたしの発表会の映像。
お父さん、響くんに頼まれて、撮影してたんだ。響くんは、わたしの演奏のこと、ずっと気にしてくれていたんだ。
「よかった……」
心の底から、嫌われてしまったわけではなかった。ちゃんと、つながりだけは残ってた。嘘じゃなかったんだ。
ねえ、響くん。わたしは、これからも響くんのことを想って、ピアノを弾き続けるよ。わたしの弾いた『夕べの調べ』に込めた気持ちが、映像越しでも響くんに届きますように—————。
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